『ブルー・バレンタイン』(2010)

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    『ブルー・バレンタイン』(2010)

    あまりにもリアルな夫婦についての映画。

    現実の夫婦生活は往々にして、フィクションのそれと違って、ロマンチズムや刺激ではなく、憂鬱と不幸に満ちている。ところが、鑑賞者はフィクションで描かれるように、ハッピーな夫婦の姿を楽しいエンターテイメントとして消費したいと考えている。だから、夫婦について現実的に、真摯に描く恋愛映画は少ない。
    現実の夫婦は生活を営むため、あるいは子供を育てるために、身を削って仕事に勤しむ内に自分のための時間を失い、その代わりにストレスを貯め、互いに求めるものが大きくなっていく。そして長年一緒に生活することでしか見えてこない、お互いの嫌になるような部分に苛立ちを募らせていく。もちろん幸福な夫婦もいるだろうが、現実の夫婦生活とは、往々にして「目を背けたくなるようなもの」ではないか。カナダ出身のデレク・シアンフランスの『ブルー・バレンタイン』は、徹底したリアリズムに基づいて、目を背けたくなるような夫婦生活を描いた作品だ。

    塗装工のディーン(ライアン・ゴズリング)と看護師のシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)は、愛娘のフランキー(フェイス・ワレディカ)とニューヨークのブルックリンで暮らすごく普通の夫婦だ。しかし、2人の夫婦関係は冷え切っており、娘のフランキーがかろうじて2人を繋ぎ止めていた。フランキーがいない間には口論が絶えず、関係の修復を図ろうと2人で出かけても結局ケンカになってしまうディーンとシンディ。「なぜこんなことに?」と苦悩する2人は、出会いの日から、幸せの絶頂だった結婚に至るまでの過程を追想していく......

    本作最大の特徴は、「幸せだった過去」と「不幸な現在」が交互に描かれていくという脚本の構造だ。通常、恋愛映画は「ボーイ・ミーツ・ガール」、つまり男女の出会いをストーリーのきっかけとすることが多い。しかし本作は、冒頭でいきなり「どうやらうまくいっていない夫婦」としてのディーンとシンディの姿を映し出す。この導入は、ありがちなハッピーエンドの恋愛映画とは一線を画す、シリアスなドラマであることの宣言となっていると言える。
    ストーリーはその後、幸せだった過去と不幸せな現在を交互に映し出していく。この過程で素晴らしいのが、ディーンあるいはシンディの、一方の主観に偏るのではなく、それぞれの人生観、過去、葛藤をフェアに映し出していくこと。ディーンとシンディそれぞれの情けなさ、後ろめたさ、怒り、そして涙を、それぞれの主観で映し出していくことで、鑑賞者は男女それぞれの視点から、ディーンあるいはシンディに感情移入することができる。

    過去を振り返れば、「幸せだった過去」と「不幸な現在」が交互に描かれていくという脚本の構造を採用した作品には、オードリー・ヘップバーン主演の名作『いつも2人で』(1967)がある。この作品は本作と同じく、娯楽性よりも、「夫婦であること」について深く掘り下げた、メッセージ性の高い作品だ。同作はヘップバーンの名演が光る名作だが、彼女の演技をより高めたのが、当時の夫メル・ファーラーとの離婚が近づいていたという夫婦関係における悩みだった。実は本作でも、これに近い背景があった。というのは、ディーンとシンディの夫婦関係をリアルなものにするため、ゴズリングとウィリアムズは、本作の撮影前の数週間を共に過ごしたのだ。その結果、彼らは本物の夫婦のように、笑い合い、時にはケンカをしたという。こうしたアプローチは恋愛映画では採用されることはほとんどない。そもそも、恋愛映画の多くはコメディよりの「撮影に困難を伴わない」ものがほとんどだ。しかし、本作のようにリアリティを追求した作品では、リアリティを担保するためにこうしたアプローチが必要になってくる。本作はこうした製作の背景にも奥深さを感じる。

    夫婦を扱った映画で、子供の存在は極めて重要な存在だ。子供がいるということは、ある意味で「重荷」でもある。例えば、別れたくなっても簡単には別れることはできない。1人でいたいと思っても、子供の世話をしなければならない。そうした葛藤を生む小道具として機能するのが、夫婦映画における子供なのだ。ディーンとシンディは惨めにぶつかり合うが、フランキーの前では「夫婦らしい」笑顔を見せる。それがまた悲しい。フランキーの無垢で純粋な笑顔とは違う、裏に悲しみを湛えた2人の笑顔には、涙を禁じ得なかった。

    この憂鬱なストーリーを彩る画面構成と音楽も素晴らしい。タイトルにも含まれているが、本作の中で象徴色として機能しているのが青だ。ホテルの中で食事を取りながら語り合う2人はブルーのライティングで照らされている。その青のライティングに加え、ディーンとシンディの周りに広がる空間にも注目したい。彼らが出会ったとき、ディーンはシンディがいる部屋に正面から入っていった。これ以降、画面の中には2人の間を隔てる遮蔽物は極力映し出されないようになる。しかし、彼らの関係性が壊れたあとのシーンでは、ドアが頻繁に映し出されることに加え、2人の間に何かしらのモノが配置されており、2人の心の距離が離れ、その関係が散らかっている(壊れている)ことを象徴する空間設計になっているのも見逃せない。
    グリズリー・ベアの楽曲を中心として構成されたサウンドトラックも、キラキラ輝くような印象を与える一方、悲しげで憂鬱なメロディが2人の関係性を際立たせる。過去の2人の間に響いた、ペニー&クオーターズの“You and me”の、愛に溢れたリリックとメロディは、現在の2人の姿とはあまりにもかけ離れており、言い様がないほどに悲しい。

    幸せの絶頂である結婚の日と、悲しみに満ち溢れた別れの日が交互に映し出され、ディーンが歩き出すラストには涙を禁じえない。彼の前で空へと打ち上がっては虚空へ消えていく花火は、いつしか尽きてしまう愛という名の光の儚さを象徴している。なんと美しく、儚く、悲しいエンディングだろう。
    繰り返しになるが、恋愛映画というジャンルは「カップル向けのエンタメ」として製作される。その中には、目を背けたくなるようなリアリティは存在しない。なぜなら、鑑賞者は恋愛映画にリアリティを求めていないからだ。彼らが求めるのは、エンターテインメントであり、カップルが幸せになるというハッピー・エンドを望んでいる。しかし、本作は違う。どうしようもないほどに煮詰まってしまった夫婦が、お互いを思って下す決断には涙を禁じえない。この恋愛に対する真摯な姿勢こそが、本作を芸術としての映画たらしめる要因と言えるだろう。

    『ウディ・アレンのザ・フロント』(1976)

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      『ウディ・アレンのザ・フロント』(1976)

      ある嘘つきの物語

      ウディ・アレン主演の『ウディ・アレンのザ・フロント』は、脚本家になりすますことになった男の姿と、50年代におけるアメリカのエンターテイメントを支配していた、「共産主義狩り」、いわゆる「赤狩り」の実態を描く作品だ。

      舞台は1950年代のニューヨーク。ある日、ダイナーのレジ係で賭け屋も営むハワード(ウディ・アレン)の元に、テレビ脚本家のアリー(マイケル・マーフィー)が訪れる。アリーは政府による弾圧を受けていた共産主義を支持してきため、「ブラックリスト」に載せられてしまい、テレビ局から干されたのだという。そこでアリーは、ハワードの名前で脚本を出し、手数料として報酬を支払う契約を持ちかける。快く引き受けたハワードは、脚本家として注目を浴びていく。しかし……

      いわゆる赤狩りには、2つの時代がある。最初の赤狩りは、1919年から1920年まで行われた短期的赤狩りで、もう一つが第二次大戦終戦やベルリンの壁崩壊の直後に行われた長期的赤狩りだ。フランク・シナトラの代表曲「ヤング・アット・ハート」に併せて流れる本作のオープニングでは、結婚式で笑顔を見せる男が映し出される。この男こそ、50年代における長期的赤狩りを主導した共和党上院議員マッカーシーだ。彼が主導した長期的赤狩りは「マッカーシズム」と呼ばれ、50年代を支配する恐怖政治として「自由の国アメリカ」の歴史に消え難い汚点を残した。
      「短期的赤狩り」と「マッカーシズム(長期的赤狩り)」の決定的な違いは、前者が急進派の政治家と社会主義的労働者を対象とするだけに終わったことに対して、後者が芸能関係者やハリウッド俳優といった芸術従事者までをもその標的とし、異常な執着心で追い詰め続けたことだ。「マッカーシズム」に対して、映画界はその主たる標的となり、「マッカーシズム」に徹底抗戦した伝説の喜劇俳優チャールズ・チャップリンが、国外追放に追いやられたことは余りにも有名だ。
      実は、本作の監督を務めたマーティン・リットと、脚本を務めたウォルター・バーンスタイン、ゼロ・モステル、ハーシェル・ベルナルディ、ロイド・ガフ、ジョシュア・シェリーといったキャスト陣も「ブラックリスト」に載せられた過去を持つ。ゼロ・モステルに関しては、彼が演じた喜劇俳優のヘッキーは、彼の友人で赤狩りを受けた末に自殺した俳優フィリップ・ローブをモデルにしている。また、ハワードが新たに契約する3人の脚本家も、ウォルター・バーンスタイン、エイブラハム・ポランスキー、アーノルド・マノフをモデルにしている。つまり本作は、赤狩りに苦しめられた映画人の実話に基づく作品なのだ。

      脚本家としてデビューしたハワードは、女性編集者のフローレンス(アンドレア・マルコヴィッチ)と恋に落ち、アリーの他に3人の脚本家とも契約を交わしたハワードは、脚本家たちの表の顔、「フロント」としてスターダムを駆け上がっていく。番組の視聴率は上がり、放送時間も増え、新シリーズの話も持ち上がる。ハワードは有頂天で、脚本家たちの仕事ぶりにも口を出すようになる。
      そんなある日フローレンスがハワードの元を訪れ、衝撃的な告白をする。赤狩りに我慢ならなくなり、テレビ局を辞めてしまったというのだ。そんな彼女をハワードは諭す。「先走るな。キャリアを捨てる気か?テレビ界初の女性製作者にもなれたのに」と。しかし、フローレンスは主張する。「こんなの間違ってる。黙ってろって言うの?」と。
      2人は決別してしまう。そして、ハワードのもとにも「赤狩り」の魔の手が徐々に忍び寄る……

      赤狩りに加えて、本作のもう1つのテーマが「なりすまし」だ。このテーマは、『ウディ・アレンのバナナ』(1971)、『スリーパー』(1973)などの、ウディ・アレンの初期作品でも見られた。しかし本作では赤狩りという歴史的・映画的モチーフが加わることで、単なるB級コメディとは一線を画す、意義あるドラマとして完成されている。そもそも本作はコメディアンを主役に据えていながら、コメディではない。当時の観客たちは、ウディ・アレンのギャグに期待して劇場に入り、憂鬱な気分に浸って劇場を後にしたことだろう。本作は、「可笑しさ」ではなく、50年代をドス黒く覆っていた「おかしさ」を描いた作品だから。

      「赤狩り」当時の俳優・脚本家たちは、自らが抱く思想を理由に弾圧され、陰に追いやられた。本作は、そんな状況下でも戦い、表現をし続けようと戦った、「真の芸術家」たちへの、悲しみに満ちたレクイエムなのだ。しかし、本作は絶望に終始せず、希望を感じさせる。ラストで描かれるハワードの「勇姿」は、なんと爽やかなことだろう。このラストは、これからのハリウッドにはこんなこと(赤狩り)があってはならないという、本作に携わった人すべての思いが詰まった、「未来への希望」の象徴なのだ。

      『ボギー、俺も男だ!』(1972)

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        『ボギー、俺も男だ!』(1972)

        ※ネタバレ無し

        ウディ・アレンの精神的成長が垣間見える快作

        ハーバート・ロス監督、ウディ・アレン脚本・主演の『ボギー、俺も男だ!』は、さえない映画評論家が妻との離婚を機に新たな恋人を作ろうと奮闘する姿を描いたコメディだ。もともとはウディ・アレンが1969年に制作したブロードウェイの舞台劇だったのだが、舞台版のキャストが再結集して映画化した作品。本作は高い評価を獲得し、ウディ・アレンは彼の初期監督作品群におけるミューズとなるダイアン・キートンと初共演を果たした。

        ハンフリー・ボガートの大ファンである映画評論家のアラン(ウディ・アレン)は、映画ばかりの生活にうんざりした妻のナンシー(スーザン・アンスパッチ)に愛想を尽かされてしまう。遂にナンシーと離婚したアランは、精神的にすっかり参ってしまった。そんなアランを見かねた友人のディック(トニ・ロバーツ)とリンダ(ダイアン・キートン)夫妻は、アランに女の子を紹介して失恋から立ち直らせようとするのだが……

        ウディ・アレンが本作に至るまでに出演した作品では、『何かいいことないか子猫チャン』(1965)や『007/カジノ・ロワイヤル』(1967)で、フェリーニや007へのパロディを披露してきた一方で、意味深いストーリーが描かれたことはなかった。本作はハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマン共演の不朽の名作『カサブランカ』のパロディではあるものの、単なるパロディに終始せず、主人公の精神的成長を見事に描き出した、一歩進んだコメディに仕上がっている。

        ディックとリンダは、アランが好みそうな女の子を片っ端から紹介するが、アランの空回りと、笑ってしまうような災難によって、デートはことごとく失敗に終わる。アランが「恋人なんてできるのか?」と悩むのと時を同じくして、リンダもディックとの結婚生活で倦怠期を迎えており、自分には構ってくれずに仕事第一のディックとの夫婦仲に悩んでいた。そんなリンダを笑わせてくれるのは、親友のアランだけ。そしてアランも、リンダにだけは素の自分をさらけ出すことができると気づく。親友の2人の間には、それまでになかった「何か」が生まれつつあった。
        そんな折、ディックがクリーブランドへ長期出張に出かける。そこでリンダは、「あなたのアパートで食事をして映画を見ない?」とアランを誘う。リンダへの本当の気持ちに気づき始めていたアランは快諾し、2人は共に夜を過ごすことになるのだが……

        本作ではそれまでのウディ・アレン作品には見られなかったいくつかの特徴的な演出が見受けられる。特に強調されているのが、モノローグの多用。自虐を交えながら絶妙に笑いをとっていくウディ・アレンのモノローグは、スタンダップコメディアン出身者としての巧さが存分に発揮されている。そして、ただ単にモノローグを用いるのではなく、アランの妄想とマジックリアリズムを組み合わせることによってハンフリー・ボガート(ジェリー・レイシー)を登場させ、アランとの掛け合いが展開されていくのもおもしろい。しかもジェリー・レイシーのモノマネが素晴らしいクオリティで、本物のハンフリー・ボガートがいるような錯覚すら覚える。

        酒を飲み、いい感じに酔っ払ったリンダは、アランに思わせぶりな態度を取る。しかしアランは親友であるディックを裏切ることに罪悪感を感じ、なかなか決心がつかない。そんなアランをハンフリー・ボガートが促し、少しずつリンダとの距離は縮められていく。しかしここで、アランは致命的なミスを犯す。リンダの気持ちも考えずに、彼女を強引に押し倒してしまうのだ。無理やり唇を奪おうとするアランにショックを受けたリンダは、アパートを飛び出してしまう。「またやっちまった!俺はなんてやつだ!」と落ち込むアラン。しかし、その直後にリンダは戻ってくる。そして……

        ここからの展開は、『カサブランカ』を観たことがある人ならなんとなく想像できるだろう。もし『カサブランカ』も、本作も未見の人がいれば、ぜひ『カサブランカ』を観てから本作を観て欲しい。そうしないと本作におけるハンフリー・ボガートの存在も、パロディとしての面白みも半減してしまう。

        そんな本作に対して私が並々ならぬ愛着を持っているのは、アランが自分の姿と重なったからだ。まず映画評論を仕事にしていること、そして不細工で妄想癖があり、プライドが高く不器用……女性に声をかけることすら下手くそという人間性。これは正しく私の姿だった。というか、映画評論家の多くはこんな感じだと思う。そんなアランが、自分の欠点と向き合い、精神的に成長し、友のために正しい決断をするラストには、可笑しさを覚える一方で素直に感動してしまった。
        70年代までのウディ・アレンは、笑えるが含蓄のない、言ってしまえばしょーもないコメディばかりに携わっていた。そんな初期ウディ・アレン作品群で、愉快なだけでなく、主人公の精神的成長も見せてくれた本作は、私の心に強く響いたのだ。

        『ヴィンセントが教えてくれたこと』(2014)

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          『ヴィンセントが教えてくれたこと』(2014)

          老人と少年の友情

          ※ネタバレなし

          セオドア・メルフィ監督の長編デビュー作『ヴィンセントが教えてくれたこと』は、ビル・マーレイ演じるヒネクレ者の老人ヴィンセントと、彼の隣家に引っ越してきた気弱な少年との交流を描いた、笑いあり、涙ありの心温まるコメディだ。

          舞台はニューヨークのブルックリン。引越しをしてきたオリバー(ジェイデン・ライベルハー)と母のマギー(メリッサ・マッカーシー)は、引越し業者のミスで隣家の植木を壊してしまう。その家の主であるヴィンセント(ビル・マーレイ)は、酒とギャンブルを愛する気難しい頑固な老人だった。その翌日、オリバーは新しい学校である聖パトリック校に転校するのだが、シャイなオリバーは転校早々いじめられてしまう。そしてオリバーは帰宅後に、家の鍵を取られてしまっていたことに気づく。仕方なく玄関に座り込むオリバーを見かけたヴィンセントは、嫌々ながらオリバーを家に招き入れるのだが……

          「老人と少年の友情」というテーマは、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』(2008)と重なる。しかし『グラン・トリノ』が現代における詩的で高潔な西部劇として多くの人の感動を誘ったことに対して、本作は笑いあり、涙ありのコメディとして観る者を楽しませてくれる。そんな本作の監督を務めたセオドア・メルフィは、ショートフィルムで経験を積んできた新鋭監督。本作が長編のデビュー作となったが、老人と少年が織り成す爽やかな友情譚を見事に完成させている。

          何といっても、名優ビル・マーレイが演じるヴィンセントが最高だ。昼間から酒を飲み、タバコを燻らせ、競馬の実況に耳を傾けて一日を過ごすヴィンセントの、反社会性の塊のような突き抜けた自分勝手さはもはや爽快なレベルで、その自由すぎるスタンスは、大人でありながら子供そのもの。そう、彼は「子供な大人」なのだ。それ故に、「しょうがねえなこのジジイは」と愛着を抱かせる魅力を持っている。これを成立させているのが、ビル・マーレイの絶妙な演技力だ。終始、絶妙にダラけた「ヌケ」のある演技で笑いを誘うテクニックは、誰にも真似できない境地に達していると言えるだろう。
          一方で、本作が長編映画デビューとなったジェイデン・ライベルハーが演じるオリバーは、あがり症でシャイ、運動音痴でヒョロヒョロの典型的ないじめられっ子。可愛い顔をしているけれど、まあ冴えない。しかし彼は、いじめられていることをヴィンセントに訊かれた時に、「ここ(頭)に何を持ってるかだぞ」というヴィンセントのセリフに対して、「ここ(心)に何を持ってるかだよ」という大人のような物言いで、ヴィンセントを驚かせる。かと思えば、再びいじめられた時には、ヴィンセントに教わった通りにいじめっ子をぶっ飛ばしてしまう。ところが、自分と似たような境遇を持っていることが分かると、あっさり許して親友に。オリバーはヴィンセントとは対極的な、「大人な子供」なのだ。

          このように本作は「子供な大人と大人な子供の交流」という矛盾した2人の関係を軸にコミカルな友情を描く。そこに花を添えるのは、愉快な女性キャストたち。ご存知ナオミ・ワッツは最近の役柄とはかけ離れた、いい感じに汚れた娼婦のダカを演じており、強烈なロシア訛りと時折見せるサービスショットが素晴らしい。オリバーのシングルマザーで看護師として一生懸命に働くマギーを熱演しているのは、『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』で大ブレイクしたメリッサ・マッカーシー。本作ではコメディエンヌとしての色合いは抑えつつも、仕事と家庭の両立に奔走するシングルマザーを見事に演じており、演技の幅広さを見せている。

          サウンドトラックも最高だ。トミー・ジェームズ、ブルーワー&シプリー、ブロンズ・レディオ・リターン、ザ・ナショナル、ザ・ウェブス、ボブ・ディランなど、ヴィンセントが青春を過ごしたであろう60年代から70年代にかけての渋いナンバーがストーリーを彩る。オリバーがオジンスキに立ち向かうときのBGMは、グリーン・デイ版の「I Fought The Law」という粋なチョイス!

          オリバーとの交流を通じて、ヴィンセントは少しずつ心を開いていき、オリバーもヴィンセントから様々なこと(大抵は教育上よろしくないこと)を学んでいく。オジンスキとの仲直りのあとは、クラスの一員として溶け込んでいく彼の姿が微笑ましい。一方ヴィンセントは、ダカのお腹に宿った新たな命に幸せを噛み締めていた。しかしある日、ヴィンセントの前に借金取りが現れ、彼は興奮のあまり倒れてしまう。ここから物語は、ヴィンセントの過去に焦点を当てて展開していく。その過去は、酒浸りでギャンブル好きの、ひねくれた老人からは想像もつかないようなものだった……

          初監督作にして、これほど質の高いコメディを完成させたセオドア・メルフィのディレクション、そしてビル・マーレイをはじめキャスト陣の名演にも大きな拍手を送りたい。ハート・ウォーミングとはこの映画のことを言うのだろう。迂闊にこんなことを言いたくはないが、「間違いない一本」だ。日本では、今秋公開予定とのこと。

          『第七の封印』(1957)

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            『第七の封印』(1957)

            「死」との対話と神の不在

            ※ネタバレ有り

            イングマール・ベルイマン監督の『第七の封印』は、十字軍から帰還した騎士と、彼の命を付け狙う「死」が織り成す対話を通じて、「神の存在」を追求するドラマだ。

            騎士のアントニウス・ブロック(マックス・フォン・シドー)は、従者のヨンス(グンナール・ビョルンストランド)と共に、10年に渡る十字軍の遠征から帰還していた。その道中で彼らが見たのは、疫病の脅威に犯されて疲弊していく祖国スウェーデンの凄惨な姿だった。そんななか、アントニウス・ブロックは彼を追って来た「死」(ベント・エケロート)の存在に気づく。アントニウス・ブロックは、「死」にチェスでの勝負を持ちかけ、自分が勝ったら解放することを「死」に約束させる。アントニウス・ブロックは見事勝負に勝ち、「死」から逃れることに成功する。その後、アントニウス・ブロックは、旅芸人(ニルス・ポッペ)とその妻ミア(ビビ・アンデショーン)と子ミカエル(俳優名不明)らとの出会いなどを経て、妻カーリン(Inga Landgré)が待つ古城へと向かうのだが……

            タイトルの「第七の封印」とは、新約聖書のヨハネの黙示録に登場する一節からの引用。つまり、本作がキリスト教的な作品であることを宣言している。ベルイマンは『夏の夜は三たび微笑む』(1955)で端正なメロドラマを完成させ、興行的にも成功したことから、本作では自由な制作方針を持つことができた。その結果、「神の不在」という、彼のキャリアにおいて最も重要なテーマを確立したのだ。大衆向きとは言えない、哲学の匂いも感じさせるこのテーマによって難解なドラマを作り上げたベルイマンだったが、不思議なことに、本作は初期のコメディ作品群よりも大きなヒットを飛ばし、ヨーロッパを中心にベルイマンの監督としての評価を確固たるものにした。

            なぜベルイマンは「神の不在」をテーマにしたのか。これには、ベルイマンが育った家庭環境が起因している。ベルイマンの父親はカトリックの神父で、かなり厳しい人だったという。そんな父親に対する反発からか、彼は8歳で信仰心を捨てた。そんな若き日のベルイマンが興味を惹きつけられたのは説教ではなく、教会内の宗教画や彫像、ステンドグラスなどの宗教芸術品だった。本作に登場する、死神がチェスをしている壁画も、ベルイマンが実際に目にした宗教画をもとにしたものだという。また、本作のビジュアル面に関しては、パブロ・ピカソの「サルタンバンクの一家」と、アルブレヒト・デューラーの銅版画「騎士と死と悪魔」を主要なモチーフにしたことをベルイマン自身が明かしている。

            本作の主人公であるアントニウス・ブロックが参加した十字軍は、中世ヨーロッパにおいてキリスト教圏の諸国によって結成された多国籍軍だ。十字軍はキリスト教の聖地である「エルサレムの回復」という大義を掲げてはいたものの、その実態は、キリスト教が異教とみなす諸国の侵略、同じキリスト教圏である国への攻撃などの、恣意的な領土拡張だったため、当時の社会からも多くの批判が向けられていた。つまり、十字軍とは罪の象徴なのだ。だからこそ「死」は、十字軍に参加した「罪人」としてのアントニウス・ブロックを付け狙うのだろう。アントニウス・ブロックは罪を悔いて神に助けと許しを請うが、神は答えない。彼は旅路を通じて出会った人々に、神の存在を問いかける。しかし、明確な回答を得ることはできない。これが意味するのが、ベルイマン作品において最も重要なテーマである、「神の不在」だ。「神の不在」が持つ意味は何なのか。それは、アントニウス・ブロックの祈りに対して神が答えないことで表現されている、信仰の難しさと、その尊さだ。
            神を信じることは難しい。アントニウス・ブロックも、その存在を追い求め続けるが、「死」の脅威から逃れることはできない。しかし、救いがないわけではない。アントニウス・ブロックは「死」とのチェスの勝負の最中、危険を感じ取って逃げようとしていた旅芸人夫婦を、「死」の目からそらし、逃げさせることに成功していた。彼は自らの命を犠牲に、尊い命を救ったのだ。その結果、キリスト教的な自己犠牲を果たしたアントニウス・ブロックと、その一行には死が与えられるが、旅芸人夫婦と赤子のミカエルには救いが与えられる。これは、紛れもなく神による救済だろう。
            先述のように、ベルイマン自身は8歳で信仰心を捨てた。しかし、彼が真の意味で神の存在を否定したのは、『鏡の中にあるが如く』(1961)、『冬の光』(1963)、『沈黙』(1963)の、いわゆる「神の沈黙三部作」であり、本作では神の存在を追求するにとどまり、その存在そのものを否定してはおらず、むしろその存在をポジティブに捉えている。

            本作の撮影監督は、ベルイマンの黄金期とも言える50年代の作品を多く担当したグンナール・フィッシェルが務めている。特に素晴らしいのが、終盤で「死」が古城に現れた場面。「死」に対して一行がまっすぐと対面する中、アントニウス・ブロックだけが神に祈りを捧げ続けている。そして外から差し込む光が、自分が犯した過ちの償いのため、尊い自己犠牲を果たした彼の表情を照らし出す。この宗教画のように美しい画面構成は、ベルイマン作品の中でも屈指の名シーンと言えるだろう。

            キャリアを通じて50本以上の作品を監督したベルイマンは、本作を「数少ないお気に入り」と述懐している。その背景には、自分が撮りたいと思ったテーマで、商業的にも批評面でも成功したことが大きかったのだろう。本作は難解と評されるが、少しばかりのキリスト教の知識と、ベルイマンへの興味を持っていれば大いに楽しめるはずだ。

            『ウォッチメン ディレクターズカット版』(09)

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              『ダークナイト』と並ぶアメコミ映画の巨塔

              ※ネタバレ有り

              『ドーン・オブ・ザ・デッド』(04)や『300』(07)で高い評価を得たザック・スナイダー監督の長編3作目にあたる『ウォッチメン』は、アラン・ムーア原作の同名コミックを、ほぼ忠実に再現した傑作SFアクションだ。本作には劇場公開版、ディレクターズカット版、アルティメットカット版の3パターンが存在するが、日本では劇場公開版しか入手・視聴することができない。ディレクターズカット版とアルティメットカット版では、後者の方が収録分数が多いが、劇場公開版ではカットされていた、本作を象徴する名場面を収録している点は同じだ。それを踏まえて、今回は私が最も良くまとまっていると考えるディレクターズカット版の内容に準拠したレビューとなっていることを最初に断っておきたい。

              1985年のある晩。米ソ間の核戦争の緊張が高まる中、かつて覆面ヒーロー集団「ウォッチメン」の一員だったコメディアン(ジェフリー・ディーン・モーガン)が殺された。彼の仲間だったロールシャッハ(ジャッキー・アール・ヘイリー)は真相の解明に乗り出し、2代目ナイトオウル(パトリック・ウィルソン)、オジマンディアス(マシュー・グッド)、2代目シルクスペクター( マリン・アッカーマン)、Dr.マンハッタン( ビリー・クラダップ)らかつての仲間たちと、その周辺人物に接触していく。しかし、コメディアン暗殺の真相には驚くべき真実が隠されており……

              ボブ・ディランの代表曲「時代は変わる」に併せて、30年代に発足したヒーロー集団「ミニッツメン」の活躍と、その後継者である「ウォッチメン」への継承が映し出されていくオープニングクレジットでは、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」、日本に向かって原爆を運ぶエノラゲイ、ベトナム戦争に反対するフラワーチルドレンの勇姿、ケネディ大統領の暗殺、アポロ計画、デヴィッド・ボウイやカルチャー・クラブの登場といった、数々の歴史的な名場面がパロディ化されている。この目的は何なのか。それは、本作が「嘘の歴史」を描く、ということの宣言だ。


              本作のストーリーは、コメディアンとDr.マンハッタンの介入によって、ベトナム戦争を勝利した後のアメリカで展開する。ベトナム戦争の後も治安維持などで活躍した「ウォッチメン」だったが、ニクソン政権への半感を抱いた大衆から、同政権に協力した「ウォッチメン」への不満が爆発。「ウォッチメン」の力を抑えようと考えたニクソン政権は、ヒーロー活動を禁止する「キーン条例」を可決・施行。「ウォッチメン」は事実上消滅し、大企業のトップとして活躍するオジマンディアス以外は素顔を明かすことなく、社会に溶け込んで平穏な生活を送ることになる。彼らは「不要になったヒーロー」に成り下がったのだ。なぜアラン・ムーアは、ヒーローたちのこんな姿を描いたのか?

              アラン・ムーアが登場する前のアメコミは幼稚なものがほとんどだった。しかし、彼の「ウォッチメン」、そして奇しくも同年に出版され、2008年に『ダークナイト』として実写化されたフランク・ミラーの「バットマン ダークナイト・リターンズ」がもたらした、「正義とは何か?」「ヒーローは正義なのか?」「人間は本質的には悪なのではないか?」という真理を突いた疑問の提起によって、アメコミは路線を大きく変え、ジャーナリズムや文学の視点からも論じられるようになり、洗練されたメディアへと姿を変えていった。その「ウォッチメン」の実写化である本作は、ロバート・ダウニーJr.の『アイアンマン』シリーズのヒットを皮切りとしたマーベル発のブロックバスターが、ド派手なCGとアクションで観客を「楽しませる」エンターテイメント映画として成功していたのに対して、『ダークナイト』と共に「既存のヒーロー像の解体」を提起することを目的としていたのだ。

              「ウォッチメン」の中でも特に印象的なのが、コメディアンだ。オープニングでナット・キング・コールの「アンフォゲッタブル」をBGMに凄惨な死に様を見せるコメディアンが象徴していたのは、「全てはジョークであり、人間は本質的に悪である」という退廃的で破滅的な思想。その思想は一見すると狂人のそれだが、裏を返せば人間の本質を捉えた真理と言える。歴史的に見ても、アメリカは世界の警察として、つまり世界をより良きものにするために代理戦争に介入してきたが、結果として多くの災禍をもたらすことになった。象徴的だったのが、コメディアン自身が介入したベトナム戦争。『地獄の黙示録』(79)のパロディが示すように、ベトナム戦争はまるで笑えないジョークだった。コメディアンはそのジョークに敢えて自ら参加することで、より良き世界のためという大義を掲げながらも、世界最強の男で神の如き力を持つDr.マンハッタンを利用して無力なベトナムを蹂躙するアメリカの欺瞞を目撃する観客でありたかったのだろう。

               

              また、彼はあるキャラクターに似ていることでも興味深い。そのキャラクターとは、本作の1年前に公開された『ダークナイト』(08)に登場するジョーカー(ヒース・レジャー)だ。ジョーカーはバットマンとの戦いを通じて、人間の本質的な悪を暴こうとテロを繰り返していた。そんなジョーカーのセリフで印象的だったのが、「危機的な状況に陥ったとき、文明化された人間は共食いを始める」というセリフ。これは正しくコメディアンの思想と合致する、「人間が孕む本質的な悪」を捉えた思想だ。原作がほぼ同時期に出版されたことからも、アメコミの方向性を変えた両作品における共通項が見えてくるのが面白い。

              ロールシャッハと再会し、警告を受けた「ウォッチメン」たちだったが、飛躍しすぎた発想だとして相手にしない。しかし、2代目ナイトオウルと2代目シルクスペクターが暴漢に襲われる。彼らはその中で久しぶりに味わった、戦うことでしか味わえない喜びやスリルに、言いようのない快感を覚える。そして彼らはオジマンディアスが暗殺者に狙われたことをきっかけに、ヒーローとしての活動を再開し、ロールシャッハと共に真相の解明に乗り出す。その過程で、2代目ナイトオウルは失っていたマスキュリ二ティを取り戻し、2代目シルクスペクターは自身の隠されたアイデンティティを発見していく。

              「ウォッチメン」たちが活動を再開する中、静かな余生を送っていた「ミニッツメン」に悲劇が起こる。初代シルクスペクター(カーラ・グギノ)との昔話を交えた電話を終えた初代ナイトオウル(スティーヴン・マクハティ)が、2代目ナイトオウルと2代目シルクスペクターがぶちのめした暴漢の仲間たちに襲撃を受けるのだ。初代ナイトオウルは、若き日のヒーローとしての自分の姿を思い描きながらチンピラに立ち向かう。頭の中の自分はかつての強さのままだ。彼は得意の左フックを繰り出す。しかし、相手に大きなダメージは無い。パンチが来る。ガードしてカウンターだ。でも、体がついていかない。そして彼は無残にもなぶり殺される。

               

              フラッシュバックとスローモーションを組み合わせるという、映像でしか成し得ない表現を通じて、「どんなヒーローも、老いには勝てない」という厳しい真実をつきつけるこのシーンは余りにも暴力的だが、ヒーローが避けられない宿命を誠実に描いている素晴らしいシーンだ。それにも関わらず、このシーンは劇場公開版には収録されていない。本作の本質である「既存のヒーロー像の解体」を象徴する、「ヒーローの老い」を描き出したこのシーンをカットし、劇場公開版ではただのニュースとして処理してしまったプロデューサー陣は、一体どういうつもりだったのだろうか。たった2分程度のこのシークエンスを、スナイダー監督にカットさせた理由を訊きたくて仕方がない。

              ……捜査の果てに「ウォッチメン」がたどり着いたのは、敵は内部にいたという衝撃の事実だった。オジマンディアスこそが、コメディアン殺しの張本人だったのだ。そして彼は、迫り来る核戦争を防ぐために、エネルギー政策のために蓄えていたDr.マンハッタンのパワーを転用して世界の大都市を壊滅させる。原作では巨大な怪物を召喚したオジマンディアスだったが、本作ではDr.マンハッタンを見事に騙し、真実を知らないニクソンのテレビ演説を利用して、Dr.マンハッタンを世界共通の脅威に仕立て上げることに成功する。この変更は、本作にザック・スナイダーが施した唯一にして最上の脚色だったと言えるだろう。

               

              オジマンディアスはDr.マンハッタンを犠牲に平和をもたらした。しかしロールシャッハは、真実が明かされるべきだと主張する。妥協を認めない彼は、引きとめようとするDr.マンハッタンに叫ぶ。「俺を殺せ!」と。一瞬の迷いのあと、Dr.マンハッタンの手によって粉々に飛び散ったロールシャッハの体は、切ない模様となって雪原に刻まれる。2代目ナイトオウルはオジマンディアスを殴り、「これが平和の代償か!」と泣き叫ぶ。彼らはヒーローの宿命である「自警主義の介入による破滅」を最悪の形で起こしてしまった。その姿は、ベトナム戦争に介入して敗れ、アフガン・イラク戦争を一方的に始めて挫折を味わったアメリカの歴史を象徴しているようだ。

               

              ……ところが、ロールシャッハはこの結末を予期していたかのように、既に捜査内容を記した日記を新聞社に送っていた。彼が体現したジャーナリズムに一縷の希望を託して。このあと、世界は真実を知るのか。その未来は明かされないまま、本作は幕を閉じる。

              架空の歴史を舞台にして、派手なバトルは描かず、ヒーローたちが抱える心理描写に重きを置いた本作は、大衆向きの作品とは言えないだろう。しかし、これほどヒーローを誠実に描いた作品があっただろうか。何度見ても飽きない本作だが、やはりディレクターズカット版こそが多くの人の目に触れられるべきだろう。このレビューを通じて、1人でも多くの人が手に取ってくれると幸いだ。

              【ディレクタースカット版】
              http://www.amazon.com/Watchmen-Directors-Cut-BD-Live-Blu-ray/dp/B001FB55H6/ref=sr_1_4_twi_1_blu?ie=UTF8&qid=1429857149&sr=8-4&keywords=watchmen


              『ファイト・クラブ』(1999)

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                『ファイト・クラブ』(1999)

                物質的富裕が生んだ精神的貧困

                ※ネタバレ有り

                90年代のハリウッドはデヴィッド・フィンチャーの時代だった。デビュー作の『エイリアン』(1992)ではそれまでのシリーズの流れを完全に無視した作風で賛否両論を巻き起こし(彼に創作の自由はなかったが)、2作目の『セブン』(1995)では銀残しや明暗法をはじめとした鮮烈な映像表現と猟奇殺人をブレンドして傑作ミステリーを完成させ、3作目の『ゲーム』(1997)ではスリラーと壮大なエンターテイメントを融合させた。そんなフィンチャー監督の長編4作目である『ファイトクラブ』は、チャック・パラニュークの同名小説を基に、心の空虚を埋めようともがく都市型サラリーマン「ヤッピー」の病理と、その暴走を描く社会派のブラックコメディだ。

                ナレーター(エドワード・ノートン)は大手リコール会社に勤めるエリート・サラリーマン。彼は飛行機に乗って世界中を飛び回り、各地で仕事をしてはマイルと金を貯める生活を繰り返すうちに、重度の不眠症になっていた。医師の勧めで、死期が近い患者のセラピーへの潜入を始めた彼は、思いがけない感情の開放によって不眠症から解放される。しかし、セラピーにマーラ・シンガー(ヘレナ・ボナム・カーター)と名乗る女が登場し、セラピーのスケジュールが狂い始め、彼は再び不眠症に陥る。そんなある日、ナレーターは飛行機の中で、タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)と名乗る石鹸のセールスマンに出会う……

                70年代以降、カウンター・カルチャーの敗北によって、ヒッピーたちの時代は終わりを告げた。そして若者は教育を受け、都市型のエリートサラリーマン、いわゆるヤッピーへと成長する。ヤッピーたちは80年代から90年代にかけて働き続け、繰り返される労働の対価である金を消費という行動につぎ込むことで心の空虚を満たそうとした。90年代は、社会をコントロールする政府や市場が、この盲目のヤッピーたちにつけ込み、消費を促進した結果、アメリカ経済が安定期を迎えていた時代でもある。この安寧とした90年代に対してデヴィッド・フィンチャーは、「物質的富裕は精神的貧困と表裏一体ではないか?」「ヤッピーを含む大衆は消費の奴隷なのではないか?」という目の覚めるような真実を突きつける。

                家が事故で爆発し、全てを失ったナレーターにタイラーは言う。「泊めてくれって言えよ」と。「わかった。泊めてくれ」と頼むナレーターに、タイラーは一つの条件を提示する。「その代わり、俺のことを力いっぱい殴ってくれ」。一度も喧嘩をしたことがないナレーターは困惑するが、やむを得ずタイラーを殴る。よりによって耳を殴ったナレーターは、タイラーに殴り返される。その瞬間、何かが弾けた。セラピーでは得ることができなかった、「痛みによる生の実感」だ。ナレーターとタイラーは誰もいない深夜の駐車場で殴り合いを続ける。こうして「ファイトクラブ」は生まれ、職業や年齢には関係なく、暴力と自己破壊によって退屈な日々に刺激を求める男たちのコミュニティは、消費主義の象徴である企業の破壊活動や、ヴァンダリズムを遂行するカルト集団へと変貌していく。

                90年代は消費の時代だったと同時に、冷戦の集結によって世界的な平和が訪れた時代でもある。にもかかわらず、湾岸戦争、ロス暴動、コロンバイン高校銃撃事件など、アメリカには相変わらず暴力が溢れていた。そういった破壊や暴力が暗い影を落とし込んでいた90年代を過ごしてきたナレーターは、「ダメージ」に取り憑かれている。車のリコール査定士として壊れた自動車を毎日のように目にして、その嫌気がさすような仕事が原因で患った不眠症を改善させたのは、病魔によって命を奪われていく末期の患者たちのセラピー。マーラによってセラピーを奪われたナレーターは、タイラーとファイトクラブを結成し、肉体の破壊によってカタルシスを得るという狂気に辿りつく。このように、消費主義という病魔に犯されたナレーターが行く先には物理的、精神的、肉体的ダメージが溢れている。つまり彼は、90年代という時代の影である、消費主義という病魔と、その病魔が生んだ「破壊と暴力が生むダメージ」への欲求という、歪んだ精神を象徴するキャラクターなのだ。

                そんな本作の魅力を一段高めているのが、タイラー・ダーデンというキャラクターであることは間違いないだろう。ブラッド・ピット演じるタイラーはあらゆる男の理想型だ。鍛え上げた肉体、雑学から議論に至るまでの博学、ブラックなユーモア、抜群のセックス……。彼は世に溢れる冴えない男が持っていないものを全て持っており、性別にかかわらず観る者を魅了する悪のカリスマ。神を否定し、赤を身に纏い、真理を突いた名言を吐き、暴力と破壊による革命を指揮するタイラーの姿は、「失楽園」におけるサタンを彷彿とさせる。

                本作はブラックコメディでありながら、叙述と映像のトリックが巧みに用いられているのも面白い。ナレーターという「名無しの主人公」は、いわゆる「信用できない語り手」と見倣すことができる。そもそも彼は不眠症を抱えており、話の内容がどこまで正しいのかが非常に曖昧だ。しかも、ボイスオーバーや「第四の壁」を破って鑑賞者に語りかけるなど、多彩な語りの手段で鑑賞者を混乱させる。
                ナレーターの不確かな語りに対して、タイラーは画面における映り方で鑑賞者を惑わす。最初はナレーターの前にサブリミナルとして瞬間的・散発的に登場し、ナレーターとの出会いのあとでは画面上に明確なコントラストを形成する。そして、不思議なことにマーラと同じ空間にいるシーンがないという奇妙な矛盾を見せたかと思えば、忽然と姿を消す。これらのトリックは、「タイラーがナレーターの別人格である」という真実を示唆するものでもある。しかし、フィンチャーはここから映画のセオリーすらも破壊して、我々の予想の斜め上を行く。
                通常、多重人格をモチーフにした作品であれば、本来の人格がその事実にたどり着いた瞬間に別人格は消えるものだ。しかし、タイラーは別人格であると判明したあとも、画面から消えない。もはや彼はナレーターを支配しているのだ。ナレーターは、消費主義の象徴であるカード会社の爆破という究極のテロ「プロジェクト・メイヘム」を阻止しようと奔走するが、タイラーの周到な計画は常にナレーターの一歩先を行ってしまう……

                「プロジェクト・メイヘム」を阻止しようとカード会社にたどり着いたナレーターだったが、ここで彼はタイラーと闘わなければならなくなる。しかし、精神が不安定なナレーターは文字通りボコボコにされる。監視カメラに映る映像がシュールだが、いよいよ笑えなくなってきた。もはや打つ手はないのか?
                計画実行まで刻々と過ぎ行く時間の中で、ナレーターはある事実に気づく。タイラーは自分が作り出した別人格であり、彼が持つ銃は偽物のはずだ。そう考えた瞬間、タイラーの手にあった銃はナレーターの手に移る。とうとう真実を見つけたナレーターは、タイラーを殺すために、自分に銃口を向けて究極の自己破壊を発動させる。
                ……瀕死になりながらもマーラとの再会を果たしたナレーターは、マーラと手を繋いでカード会社の崩壊を見つめる。彼の隣にもうタイラーはいない。彼の隣には、本当に必要としていた存在がいるから。

                本作で描かれた、消費主義という病に冒されたヤッピーの暴走は、一見すると極端に戯画化され、現実離れしたブラックコメディに思える。しかし、よく考えて欲しい。90年代から、消費主義は更にその力を拡大している。大企業のチェーン展開に加えて、インターネット上には広告が溢れかえり、ネットショッピングはアクセスすれば頼んでもいないのに「あなたにおすすめの商品はこれです」と消費を煽ってくる。フィンチャーは、本作を通じて我々の「現在」を予測していたのではないか。その作家性に脱帽するとともに、我々が今日置かれている状況に気味の悪い不安を覚えるのは、私だけだろうか。

                『ファンタスティック Mr.FOX』(2011)

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                  『ファンタスティック Mr.FOX』(2011)

                   

                  CG全盛の時代に敢えて挑んだストップ・モーション

                   

                  ※ネタバレ有り

                   

                  ウェス・アンダーソン監督の長編映画7作目にあたる『ファンタスティック Mr.FOX』は、ロアルド・ダールの同名児童文学を基に、彼にとって初挑戦となった「ストップ・モーション・アニメ」を用いて、野生動物と人間の戦いを通じて描かれる「壊れた家族」の再生を描く。

                   

                  ニワトリ泥棒のMr.フォックス(ジョージ・クルーニー)は、恋人のMrs.フォックス(メリル・ストリープ)との間に息子のアッシュ(ジェイソン・シュワルツマン)ができたことを知り、新聞記者として働くようになる。年月は過ぎ、質素ながら平和に暮らすフォックス一家へ、父親が病気のクリストファソン(エリック・アンダーソン)が訪れてくる。共同生活が始まると、何事にも秀でたクリストファソンを褒めちぎるMr.フォックスに、アッシュは不満を募らせていく。

                  そんなある日、「家族にもっといい暮らしを送らせたい」という願いと、本能である「獲物を求める心」が疼いたMr.フォックスは、友人のオポッサム(ウォーリー・ウォロダースキー)を誘って、土地を支配する3人の農場主(ビーン、ボギス、バンス)から、ニワトリとリンゴジュースを見事に盗み出す。しかし、盗みを重ねるMr.フォックスは、3人の農場主から首を狙われることになってしまい……

                   

                  ウェールズ出身の児童文学作家であるロアルド・ダールの原作は、幼き日のアンダーソン監督が最初に手にした本だった。ダールは第二次大戦にイギリス空軍のパイロットとして従軍し、飛行機の墜落によって脊髄に重傷を負った過去を持つ。彼が代表作の『マチルダはちいさな大天才』シリーズ(『ハリー・ポッター』シリーズの登場まではイギリス児童文学最大のヒット作)や後にティム・バートン監督によって映画化された『チョコレート工場の秘密』、そして本作のように子供を主人公としたユーモアあふれる物語を紡ぐのは、彼が目にした戦禍とは真逆の平和でユーモアあふれる世界を描きたかったからなのだろう。ダールの過去を反映させてか、Mr.フォックスが戦う農場主のビーンが持っている銃が、第一次・二次大戦期にドイツ軍で採用されていたルガーになっているのも印象的だ。

                  本作のテーマの一端である「家族の危機」というモチーフには、アンダーソン監督自身の過去が関わっている。アンダーソン監督の両親は彼が幼い頃に離婚しており、彼の作品で「壊れた家族」がたびたびモチーフになるのはこの悲しい出来事が彼に与えた家族への想いが起因しているのだ。

                   

                  人間にとって、キツネは古来から病気や家畜を襲う動物のイメージが強く、厄介者と見做なされてきた。西洋やラテンの文化史においては「嘘つき」や「トリックスター」として描かれてきたことでも知られる。その一方で、アジアの文化史では神話的な象徴として描かれることが多い。ところが、本作に登場するキツネの一家、そして彼らを取り巻く動物たちは、従来のステレオタイプなイメージとはかけ離れた人間的な魅力にあふれたキャラクターたちだ。

                  主人公のMr.フォックスをジョージ・クルーニー、彼の妻で風景画家のMrs.フォックスをメリル・ストリープ、そして夫妻の息子でひねくれ者のアッシュをジェイソン・シュワルツマン、Mr.フォックスの友人で弁護士のクライブをビル・マーレイ。新鮮なキャストをアンダーソン監督作品の常連が見事に引き立たせる素晴らしいキャスティングになっている。

                   

                  構成とプロダクション・デザインも言うことなし。アンダーソン監督の定番である切り返しや真横からキャラクターを捉えるショットにストップ・モーションが融合した画面構成は、絵本を読んでいるような気分にさせてくれる。カット割りの総数は56000カットに登り、水をサランラップで、煙は綿で表現するなど、手作り感もグッとくる。独特の間で繰り広げられるジョークには思わずクスっとくるし、時折挿入される「第四の壁」を破るシーンも絶妙。

                  舞台となる土地はロアルド・ダールが住んでいたグレート・ミッセンデンの景色を下にデザインされている。Mr.フォックスが住む木の家はダールの庭にあった木、書斎もダールのそれがモデルになっており、アンダーソン監督のダールへの愛が伝わってくる。

                  その他にも、秋を感じさせるイエロー、ブラウン、オレンジの多用によって描かれる背景の美。そして数少ない青色をクリストファソンの瞳に用いることで象徴される彼が抱える孤独など、色のシンボリズムも素晴らしい。そんな本作で描かれるのは、「父親のエゴがもたらす家族の危機と再生」だ。

                   

                  「もっといい暮らしをしたい」という父親らしい願いと、危険と獲物を求めるというキツネの野性は、換言すればエゴだ。最初は巧くいっていた盗みは人間の怒りを買い、その傲慢なエゴは罪のない友人たちまで危機的な状況に巻き込んでしまう。「父親のエゴがもたらす家族の危機と再生」というテーマは、アンダーソン監督の長編映画3作目『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(2001)で描かれた。しかし本作は、キャラクターを動物に置き換え、鮮やかに展開されるアクションを描くことで、冒険活劇としてエンターテイメント性が高い作品になっている。

                  同作で描かれた「家族へのコンプレックス」も、本作の重要なモチーフとして継承されている。Mr.フォックスとクリストファソンに対してアッシュが抱えるコンプレックスは、十代の少年であれば誰しも抱える「自身の才能への疑問と挫折」だ。アンダーソン監督は、人間が最初に味わう挫折によって実存的不安を抱える少年の葛藤を見事に描き出している。

                   

                  3人の農場主との戦いの過程でMr.フォックスが尻尾を失うのは、彼のエゴが失われたことを象徴している。そんな父を救おうと、アッシュとクリストファソンの無謀な試みによって更なる危機が訪れる。家族の危機を前にして、遂に彼はエゴを捨てる。本当の家族の幸せ、そしてキツネとしての実存的不安を乗り越える戦いに挑む決意を固めたMr.フォックス。ここから始まる「決死の救出作戦」は、緊張と緩和を巧みに使いながら一瞬も目を離せないアクションの連続!それぞれのキャラクターに見せ場が与えられているのも素晴らしい。

                   

                  アンダーソン監督といえば、画面の端々に可愛らしいデザインを施すことでも知られる。本作で特に印象深いのは、終盤に展開される「決死の救出作戦」の中で、松ぼっくりの攻撃を受けるお店の一つ「SWEETKING BAKERY」のデザイン。このお店のピンクが強調された可愛らしいデザインは、後の監督作品『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)に登場するパティスリー「MENDL'S」のデザインに極めて似ている。もしかしたら、この時すでにアンダーソン監督の頭の中に構想の断片があったのかもしれない。彼の作品のディティールには、こうしたクロスオーバー的な意味合いを持つものが多いのも面白い。

                   

                  アレクサンドル・デスプラが担当したサウンドトラックも素晴らしい。デスプラによるポップスとカントリーが溶け合った優しいオリジナルスコアの他に、ビーチ・ボーイズ、バール・アイヴス、ナンシー・アダムス、フランソワ・トリュフォー作品でお馴染みのジョルジュ・ドルリュー、ジャーヴィス・コッカー、アート・テイタム、アンダーソン監督作品にはお約束のローリング・ストーンズ、ボビー・フラー・フォーなど、超豪華な名曲の数々で構成され、さりげなくストーリーを盛り上げる。


                  わずか87分に凝縮された「壊れた家族の再生」は、アンダーソン監督の新たな表現を切り開いた傑作となった。フォックス一家の活劇は、思わず共感してしまう。本作はぜひ家族と一緒に観てほしい。オープニングからエンドロールまで、家族みんなを笑顔にさせてくれるだろう。

                  『永遠のこどもたち』(2007)

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                    『永遠のこどもたち』(2007)

                     

                    美しく悲しいホラー

                     

                    ※ネタバレ有り

                     

                    誰しも忘れられないホラー映画があるものだ。アイスホッケーのマスクをかぶってナタを振り回す男、夢の中に現れる鍵爪男、霊に取り憑かれた少女、呪いのビデオから這い出す女……。ホラー映画は、観客を怖がらせる多くのアイコニックなキャラクターを作り上げてきた。これらのキャラクターは、劇中に登場する人間たちに多かれ少なかれ憎悪や怒りといった感情を抱いており、ストーリーは復讐や呪いなどのモチーフを孕むことが多い。しかし、私は彼らに恐怖を感じない。怖がらせる気が満々だから、逆に冷めてしまう。

                    私が恐怖を感じるのは「無邪気」だ。それも悲しい過去を持つ子供の無邪気さが、悪意のない恐怖を与えるような作品が最も怖い。

                    スペイン映画界で最も注目すべき新鋭、フアン・アントニオ・バヨナの長編デビュー作『永遠のこどもたち』は、無邪気さが引き起こす底知れぬ恐怖に深い悲しみが溶け合った極上のホラーだ。

                     

                    物語はスペインの孤児院で幕を開ける。かつて自分自身が幼少期を過ごした孤児院を、恵まれない子供たちの世話をするためのホームにしようと買い取ったラウラ(ベレン・ルエダ)。彼女と夫のカルロス(フェルナンド・カヨ)、そして病気を抱える7歳のシモン(ロジェール・プリンセプ)は、ホームを開く準備をする日々を送っていた。しかしラウラにはひとつだけ気になることがあった。それは、シモンが未だに「イマジナリー・フレンド」(空想上の友達)と遊んでいることだった。その友達の名前はトマス。楽しそうにトマスと遊んだことを話すシモンを、ラウラは信じようとしない。

                    そんなある日、ホームの歓迎会の最中にシモンが姿を消す。シモンには継続的な投薬が必要だったため、失踪から日を重ねるごとに生存の可能性は薄れ、ラウラは憔悴していく。そして半年の月日が流れても、シモンは見つからなかった。果たしてシモンはどこに消えたのか?そして諦めずにシモンを探し続けたラウラがたどり着いた驚愕の結末とは……

                     

                    本作で重要なモチーフとなる「イマジナリー・フレンド」は、欧米・西洋のこども文化で最も有名なもの。欧米・西洋では、日本のように夫婦が子供を挟んで川の字になって眠るといった文化はない。一人で歩けるようになったら一人で寝かせるのが一般的だ。そして、子供たちはパパとママがいない寂しさや怖さから「イマジナリー・フレンド」を作り出すと考えられている。「イマジナリー・フレンド」は70年代から80年代のホラー映画で多く用いられてきた。スタンリー・キューブリックの『シャイニング』(1980)や、ロバート・マリガンの『悪を呼ぶ少年』(1973)、リュー・レーマンの『ザ・ピット』(1981)などの傑作ホラー映画でも、空想上の友達がストーリーの中で重要な役割を果たし、『死霊のはらわた』(1981)『エルム街の悪夢』(1984)などの、アイコニックなキャラクターが登場するホラーとは一味違った恐怖を与えてきた。

                     

                    「イマジナリー・フレンド」を巧みに操るバヨナ監督の演出の腕も、デビュー作とは思えないほど洗練されている。オープニングでは孤児院の庭で優しい光に包まれながら遊んでいる子供たちが映し出され、美しい旋律と共に聞こえる子供たちの声が愛らしい。しかし、「みんな寂しくなるわね」という寮母のセリフの後、暗く単調な音に切り替わる。音がもたらす恐怖は、劇中で断片的に挿入される子供たちの声、無機質な不協和音によって何度も強調される。そして音による恐怖は、除霊のために霊媒師アウローラ(ジェラルディン・チャップリン)が過去に起こった悲劇を追体験する場面で最高潮を迎える。ここで特徴的なのが、子供たちの姿を映さないことだ。ビデオには、恐怖に怯える子供たちの声とアウローラの姿だけが映される。何が起こったのか、敢えて見せない。声、音を徹底して強調する。

                    バヨナ監督は表情の作り出す恐怖も効果的に使っている。ホラー映画において、「仮面」や「頭巾」といった「顔を覆うもの」は重要な役割を果たす。これによって作り出される無表情、そして仮面の下に何が隠れているのかという疑問は、得体の知れない恐怖を喚起する。また、かつて孤児院で働いていたベニグナ(モンセラート・カルーヤ)の表情は異質だ。大きなメガネの奥に映る瞳には常に不気味さが漂い、画面に存在するだけで鑑賞者の不安を呼び起こす。

                    『マシニスト』(2004)、『機械じかけの小児病棟』(2005)、『ビューティフル』(2010)などで知られ、影を象徴的に用いる名匠、オスカル・ファウラの撮影による、上品さとサスペンスを兼ね備えた映像も素晴らしい。

                     

                    ホラー映画におけるイマジナリー・フレンドは、無邪気に恐怖をもたらす。本作でも、子供たちの霊に会うことができず途方に暮れたラウラが、ふと「一緒に遊びたいのね」と語りかける場面が印象的だ。子供たちは、彼らを殺したベニグナに対して恨みや怒りの感情を抱いていない。子供たちは、ただ遊びたいだけなのだ。彼らは自分たちが死んでしまったことにさえ気づかず、ただ純粋に、「まだ遊びたい」と願っているのだ。純粋な気持ちが他者の恐怖を呼ぶとは知らずに。そんな彼らと「だるまさんがころんだ」をするラウラが象徴するものはなんだろう?

                    ラウラが夫に渡されたネックレスは、聖アントニウスのネックレスだ。カトリックにおいて、聖アントニウスは失われた人と物の保護者だ。つまり「ラウラ=聖アントニウス」、「子供たち=聖アントニウス(ラウラ)に守られるもの」というシンボリズムが組み込まれていたのだ。

                     

                    この映画では、「精神的回帰」も重要なモチーフになっている。ラウラは孤児院で育ち、本当の親の愛情を知らずに育った過去を持つ。つまり彼女は「大人になれない子供」で、心理学における「ウェンディ」なのだ。ここで前半におけるシモンとラウラの『ピーターパン』に関する会話が思い出される。ラウラは、ピーターパンに憧れる息子のシモンの世話をするウェンディなのだ。そして孤児院はネバーランドであり、親を失った「ロストボーイ」(ガールを含む)たちは年をとることなく暮らしてきた。なぜなら彼らは悲しい死を遂げた幽霊だから。ラウラが子供たちを見ることができたのは、彼女自身がかつて自分が育った孤児院で「ウェンディ」に回帰したからだ。

                     

                    舞台、登場するモチーフ、シンボリズムから、本作は極めてキリスト教的な映画であることがわかる。しかし、キリスト教的な映画であるにもかかわらず、ラウラが最後に下した決断はアンチ・クライストそのものだ。この決断は、本作でプロデューサーを努めたギレルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』(2006)からの影響だろう。その美しく切ないエンディングは、いわゆる「ホラー映画」では得ることのできない、清らかなカタルシスを感じさせる。


                    本当に怖いホラー映画を見たいとき、本作をご賞味あれ。

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