【レビュー】『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』―「世紀の対決」に過度の期待は禁物

0
    スケールは大きいが、すっきりしない…。

    近年のハリウッドでは、『アベンジャーズ』シリーズや『スパイダーマン』および『アメイジング・スパイダーマン』シリーズ、そして『X-MEN』シリーズに代表されるマーベル・コミックの実写化作品が、大きな成功をコンスタントに収めてきた。一方、マーベルとアメコミ業界の双璧を成すDCコミックの実写化作品は、2013年に発表された『マン・オブ・スティール』以降、なかなか姿を現さなかった。マーベルが次々と大ヒット作を生む中、なぜDCが沈黙していたのか不思議だったが、彼らはただ沈黙していたわけではなかった。彼らは一本の作品を温めていたのだ。その作品こそが、3月25日(金)に全国公開となった、誰もが知る2大ヒーロー:バットマンとスーパーマンの対決およびワンダーウーマンの登場を描くことで話題の映画『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』である。

    物語は、『マン・オブ・スティール』で描かれた、クラーク・ケントことスーパーマン(ヘンリー・カビル)とゾッド将軍(マイケル・シャノン)の戦いから幕を開ける。スーパーマンはゾッド将軍を倒して人類を救うのだが、同時に街を破壊して数千人を犠牲にしてしまうなど、甚大なコラテラル・ダメージ(巻き添え被害)を生んでしまった。目の前で大切な社員や市民が犠牲になる様を見せつけられたブルース・ウェインことバットマン(ベン・アフレック)は、スーパーマンを脅威に感じ、彼に対抗する手段を模索し始めるのだが…。

    DCにおける象徴的な存在である両雄の決戦が描かれるということで、本作には大きな期待を抱いていた。ところが、その期待は非常に残念な形で裏切られることとなった。というのも、重厚な空気を纏って展開される本作は、その空気感とは不釣り合いな、軽薄なキャラクター描写が目につくことによって、魅力のないストーリーを見せるに終始するのだ。

    まず違和感を覚えるのは、スーパーマンが、破壊したビルの所有者であり、世界で知らぬ者はいない程の超セレブであるウェイン=バットマンの存在を知らないこと。この無知は、バットマンとスーパーマンを闘わせようと画策する悪役のレックス・ルーサー(ジェシー・アイゼンバーグ)が催したパーティ会場で記者仲間が放つ、「セレブには疎いな」というセリフであっさり片付けられているのだが、新聞記者であるという設定と照らし合わせると著しく不自然だ。そして困ったことに、この無知は主人公としての致命的な問題をスーパーマンに付与してもいる。

    その問題とは、スーパーマンのコラテラル・ダメージに対する無責任さの露見だ。劇中では、自身が生んだ犠牲に対してスーパーマンが罪悪感を抱くような描写は時折挿入されるし、相変わらず彼はあちこちで困った人々を救っている。しかし、こうした苦悩や善行の尊さは、ウェイン=バットマンという象徴的な被害者に対する無知があっさり描かれることによって希薄化され、これによってスーパーマンは極めて無責任な男として印象付けられてしまい、鑑賞者は彼を応援する気を削がれてしまうのだ。

    もう一人の主人公であるバットマンについてだが、なぜスーパーマンを倒すことに拘るのか理解に苦しむ。劇中に登場するフィンチ上院議員(ホリー・ハンター)は、「民主主義における正義とは対話」という印象的なセリフを放つが、この対話こそが両者の間に為されるべきことだ。しかし、バットマンはそうしようとする素振りすら見せず、スーパーマンを倒すことだけを考えて行動する。

    確かに、戦いの中で自社ビルや街を破壊され、社員や市民が犠牲になったことは、スーパーマンを排除するという目的を抱く理由としては十分に思える。しかし、スーパーマンがいなければ地球は侵略されていただろうし、バットマンがスーパーマンに代わってあの状況を打開できたはずがない(バットマンがスーパーマンを含む宇宙人に対抗する方法は、本作で明かされる)。言ってしまえば、圧倒的な力を持つスーパーマンは、敵に回すよりも味方にする方がベターな存在なのだ。結果的に、バットマンは飛びぬけた知性でスーパーマンへの対抗策を見出すのだが、その知性は「協力を試みないこと」に象徴される浅はかさによって打ち消されてしまい、これが主人公としての彼の魅力を低下させていることは明らかだ(彼の浅はかさは、終盤におけるスーパーマンとの対決でも露見して鑑賞者を苛立たせる)。

    さらに、両者を衝突させようと画策するルーサーにも決定的な問題がある。それは、目的の欠如だ。劇中で言及があるように、バットマンにはジョーカーというライバルと闘った過去がある。作品によって異なるが、それぞれのジョーカーには、バットマンに闘いを挑むに際して、鑑賞者が納得しうる動機が与えられてきた。しかし、本作ではなぜルーサーがバットマンとスーパーマンの闘いを焚きつけるのかが、終幕に至るまで全く見えてこないのだ。彼が精神的に問題のあるサイコな人間であることは分かるが、彼は自身の行動原理や目的を明確にすることがないため、鑑賞者はルーサーが両者の戦いを望む理由を終ぞ理解することができない。

    バットマン、スーパーマン、ルーサーに失望させられる一方、クライマックスで登場するワンダーウーマン(ガル・ガドット)の存在はポジティブに捉えることができる。これまでのスーパーヒーロー映画では、女性キャラクターは往々にして守られる存在だったが、ワンダーウーマンは両雄と肩を並べて超人的な戦闘力を発揮し、今までにない女性キャラクターとして立脚している。劇中では詳細に語られないものの、1枚の写真に秘められた、彼女の謎めいたバックグラウンドにも興味をそそられる。…ただ、ワンダーウーマンの登場がバットマンとスーパーマンの対決に影響を及ぼしておらず、さらには両者の対決が根本的な問題を解決することがないまま、外的要因によって唐突に決着してしまう展開は、あまりにも淡泊で勿体ない。

    二大ヒーローの「世紀の対決」およびワンダーウーマンの登場という枠組みによって注目を集めた本作だが、結果としては、浅薄なキャラクター描写と合理性に欠く展開が散見され、キャラクターやキャストが持つポテンシャルが最高の形で活かされることもなかった(特に、ルーサーを演じたアイゼンバーグの優れた演技力が、キャラクターの肉付け不足で上滑りしているのが惜しまれる)。およそ282億5千万円(1ドル113円計算)という莫大な費用をかけて製作された以上、それに見合う価値が与えられて然るべきだったわけだが、スナイダー監督はこの務めを果たすことができていない。常々思うことだが、本作のような底の浅い超大作が生み出される一方、遥かに低い予算で製作可能な作品の数々が埋もれていくのが、一映画ファンとして悲しい限りだ。

    (文:岸豊)

    『ジュラシック・ワールド』(2015) レビュー(ネタバレ無し)

    0
      『ジュラシック・ワールド』(2015) レビュー(ネタバレ無し)

      いい意味でも悪い意味でも「子供向け」

      マイケル・クライトンの同名小説をスティーヴン・スピルバーグが映画化した『ジュラシック・パーク』(1993)の衝撃は、凄まじいものだった。革新的な映像表現によって画面の中に登場した恐竜たちは迫力に満ちた戦いを繰り広げ、見るものに圧倒的な興奮と感動を与えた。しかし、『ジュラシック・パーク2』や『ロスト・ワールド』という2つの続編が今一つの作品となったことで、シリーズは長い眠りにつく。……その眠りが、今年遂に破られた。「ジュラシック」シリーズの14年ぶりとなる最新作『ジュラシック・ワールド』は、シリーズ1作目の20年後を舞台に、新たな恐竜のテーマパーク「ジュラシック・ワールド」で繰り広げられる壮大な冒険を描いた作品だ。

      ある日、恐竜が大好きな少年グレイ(タイ・シンプキンス)は、兄のザック(ニック・ロビンソン)と共に、離婚の危機にある両親の元を離れて、叔母のクレア(ブライス・ダラス・ハワード)が務める恐竜のテーマパーク「ジュラシック・ワールド」を訪れる。クレアは2人の世話をするはずだったのだが、多忙なために助手を付き人として同行させ、仕事に戻ってしまう。2人は園内を楽しむうちに、クレアの助手の目を盗んで自由行動に出てしまう。
      一方、クレアは社長のマスラニ(イルファン・カーン)と共に、遺伝子操作で生み出した新種「インドミナス・レックス」の成長を視察しに行く。飼育設備に一抹の不安を覚えたマスラニはクレアに、元海軍でラプトルとの信頼関係を築いている飼育員オーウェン(クリス・プラット)にも助言をもらうよう指示する。かつて一度デートした微妙な関係に居心地の悪いクレアだったが、オーウェンと共にインドミナス・レックスの元へ戻る。しかし、肝心のインドミナス・レックスがいない。壁に残された巨大な爪痕を見たクレアは、インドミナス・レックスが脱走したと考え、対策のために司令部へ向かう。しかしインドミナス・レックスは、高い知能と特殊な能力を用いて脱走を偽装していただけだった。巧みに姿を隠していたインドミナス・レックスは、原因究明のため飼育ゾーンに入ったオーウェンと警備員に襲いかかる……

      映画の魅力は、突き詰めれば2つの要素に帰結する。1つは、ストーリーやキャラクターで構成される「物語」そのもの。もう1つは、その物語をいかに描き出すかという「映像表現」だ。この2つの要素のバランスをとってこそ、いわゆる「名作」は生まれる。しかし、どちらかへの依存度が高くバランスが取れていない作品は、「名作」にはなりえない。はっきり言うが、本作は物語を疎かにして、映像表現への依存度が極めて高い作品であり、名作と呼ぶには値しない。
      本作の映像表現は素晴らしい。恐竜の皮膚、獲物を捉える瞬間の口蓋や牙、巨体がぶつかり合う迫力の戦い……これらの映像表現は、迫力に満ちたエンターテインメントとして成立している。演出面でも、インドミナス・レックスという新たな恐竜を登場させるに際しては、姿を簡単には見せず、焦らして焦らしてというスピルバーグ的な手法が多用されており、よく勉強しているのが伝わってくる。しかし、ストーリーの核となっているのがチープなヒロイズムと予定調和のロマンスでしかなく、さらには中途半端なリアリティが足を引っ張っており、映像表現のレベルと物語のレベルが釣り合っておらず、物語面でののアラが際立ってしまっている。

      クリス・プラットが演じるオーウェンは、典型的な主人公タイプの男だ。元海軍でワイルドな二枚目、飼育するラプトルとの信頼関係を築き、多くの仲間からも頼られている。しかし、このキャラ設定は早々に崩壊する。というのも、インドミナス・レックスが脱走したあと、オーウェンが真っ先にいうセリフが、「こいつをさっさとマシンガンで殺せ」という主人公らしからぬ、野蛮極まりない言葉なのだ。劇中では、インドミナス・レックスにラプトルのDNAが組み込まれていることが明かされている。ラプトルを愛し、マスラニやクレアの運営方法を批判し、「恐竜は生き物だ」と主張するオーウェンにとって、ラプトルのDNAが入ったインドミナス・レックスには、何かしらの同情を抱く余地があるように思える。しかし、彼は「殺すべき」と主張する。「恐竜だって生き物なんだ」とクレアに説教していた彼はどこへ行ったのか。しかも、クレアに頼まれた結果、インドミナス・レックスに立ち向かう彼は中型のライフル1丁しか装備していない。……これでは軽装すぎるだろう。RPGやグレネードなどを装備すべきだし、海軍というバックグラウンドが全く生かされていないのもどうかと思う。

      また、クレアの描写にも大きな不満が残る。彼女はジュラシック・ワールドの運営やインドミナス・レックスの計画を任されていたので、彼女には当然責任がある。しかし、彼女は罪の意識を全く感じさせないからタチが悪い。彼女は自分のミスでインドミナス・レックスを脱走させるきっかけを作り、その場で死にかけたオーウェンを「甥のため」という大義名分のもとにインドミナス・レックス狩りに都合よく使う。彼女は最後まで自意識過剰な姿勢を崩さず、たまに体を張って、オーウェンと共に生き残り、彼とヨリを戻すだけだ。「私、間違ってたわ」という一言があればそれで彼女の傲慢さは精算されるのに、こういったセリフは最後まで発せられることがない。
      また、科学者でもないのに白衣を身に付けており、自分の美しさを誇示しようとしているのも鼻につく。この白い服が汚れていく様に彼女の変化や成長が象徴されているのだろうが、余りにも作為的で鼻につくし、彼女は反省や心境の変化を見せることはない。そして一番腹が立つのが、劇中を通じてハイヒールを履き続けていること。彼女に恐竜が蠢くジャングルで生き残るつもりがあるとは思えないし、靴がないならオーウェンが即席で何か足を保護するものを作るといった展開があってしかるべきだろう。

      本作はインドミナス・レックスに立ち向かうオーウェンやクレアの活躍を見せ場にしているが、最大の被害者はインドミナス・レックスではないのか。この恐竜は、商業主義の暴走がもたらした遺伝子操作によって生み出された、人間が勝手に生み出した存在だ。そんな哀れな怪物に対して、オーウェンが「殺せ」と主張する姿は、主人公としてどうかと思う。オーウェンがインドミナス・レックスと心を通わせようとする描写があれば感動を生むことだったろうが、オーウェンはそんな素振りを一切見せない。インドミナス・レックスが悪としてしか描かれていないのが残念でならないし、インドミナス・レックスを「救う」のではなく「狩る」オーウェンたちの活躍をあたかもヒーローとして描いているのが、過ちを暴力を用いて精算しようとする「人間の汚さ」を見ているようで気分が悪い。

      リアリティの面で思わず笑ってしまうのが、ホスキンス(ヴィンセント・ドノフリオ)率いるインジェン社が目指している、「恐竜(ラプトル)の兵器利用」だ。この計画が最初に明かされときには、思わず「はあ?」と言ってしまった。確かに序盤でオーウェンとラプトルの信頼関係は描かれていたが、そのシーンで描かれたのはあくまでも限定された環境下での信頼関係に過ぎないし、ドローンの戦場利用が進んでいる昨今、恐竜を兵器として用いるなどちゃんちゃらおかしい。余りにもリアリティがなさすぎる。終盤の展開にも閉口だ。あの恐竜を人間にとっての救世主のように描いているその都合の良さには耐えられなかった。あまりにも都合が良すぎる。

      本作はシリーズ1作目の作風を引き継ぎ、多くのイースターエッグやオマージュを組み込んでいるため、「ジュラシック愛」はひしひしと伝わってくる。しかし冷静に分析すると、どうしてもアラが目立つ。先述の通り最新の技術に基づく映像表現は目を見張るものがあるものの、ストーリーには何のリアリティも感じられず、ただ傲慢な人間の「サバイバル」を見せられるだけなので、ついぞカタルシスを得ることができないまま2時間弱の時間を過ごすことになってしまった。
      結局のところ、本作が提示するのは映像表現によるエンターテインメントと、「生き残った者が正義」という野蛮で尊さの欠片もない傲慢な結論だけだ。鑑賞者が人間的に高められるような、尊いテーマ性は一切感じられない。こういった作品に満足するのは、リアリティを度外視して、単純に「強いもの」や「ヒーロー」への憧れを持つ子供たちだけでいい。ただ、私がここまで本作を糾弾する背景には、私が童心が失ってしまったからかもしれない。そう考えると、少し寂しかったりもする。

      『ダイバージェント』(2014)

      0
        『ダイバージェント』(2014)

        ティーン・フェミニズムの矛盾

        ※ネタバレ無し

        ニール・バーガー監督、シェイリーン・ウッドリー主演の『ダイバージェント』は、ヴェロニカ・ロス原作の同名シリーズを映画化したSF大作。公開直後から賛否両論が見られたが、「SFとして面白いか否か」ではなく、今日のハリウッドが抱える問題を象徴する作品として興味深い。

        舞台は戦争によって荒廃した近未来のシカゴ。そこでは博学、平和、高潔、勇敢、無欲という5つの人間性によって人々が分別され、5つの派閥が形成されることで秩序が保たれていた。主人公のベアトリス(シェイリーン・ウッドリー)は、どの派閥に最も適正があるかのテストを受ける。しかし彼女は、5つの分類の全てに当てはまらない異端者、「ダイバージェント」と判定されてしまう……

        本作はキャストの豪華さだけは褒められる。主人公のベアトリスをシェイリーン・ウッドリー、ベアトリスの兄ケイレブをアンセル・エルゴート、超嫌味な勇敢のメンバーであるピーターをマイルズ・テラーが演じており、期待の若手俳優がそろい踏みとなっている。そして悪のオーラをまとった評議委員ジェニーンを演じたのは、大女優ケイト・ウィンスレット。彼らはそれぞれいい味を出しているが、ベアトリスを支え、少しのロマンスも見せるトビアスを演じているテオ・ジェームズに、特徴らしい特徴がない。言ってしまえば、地味でつまらない。というか、アンセル・エルゴートとビジュアルが被っているし、演技も抑揚がない。もう少しアクの強い俳優でも良かったのではないか。

        そんな本作の舞台である近未来のシカゴは、博学、平和、高潔、勇敢、無欲という5つの人間性によって、人々が分別され、それぞれの派閥を形成することで秩序を保っている。しかしその実態は、子供たちに選択の自由を謳っていながら、いずれかの派閥に所属することを強制し、選択しない自由を許さない夜警国家に支配されているだけのデストピアだ。そのデストピアにおける秩序を形成するのが、人々を5つの人間性に分別する選別の儀式。選別された人間はそれぞれの派閥で、それぞれ生きていく。こうすることで、世界のバランスが保たれている。
        ベアトリスはテストを受けるが、5つの人間性のどれにも属さない、ダイバージェント(異端者)と判断される。ダイバージェントは危険分子として世界を統治する博学から狙われることを知ったベアトリスは、結果を偽って勇敢に紛れ込む。ベアトリスは訓練を積み勇敢の選抜に生き残るが、博学と勇敢が共謀し、世界の統一を狙っているという事実が明らかになる……
        とまあ、教科書的で驚きのない予定調和なストーリーが展開されていく本作。時折出てくる陳腐なセリフと気恥ずかしくなるシーンには頭が痛くなる。総合的に見て本作は、いわゆる「良い映画」の基準に達しているとは言えない。しかし、そもそも本作はストーリーを楽しむ作品ではない。今日のハリウッドが抱える問題を如実に示す作品として理解すべきだ。

        本作を含め、ここ数年のハリウッド映画では、「若年女性による革命」というテーマが非常に大きな力を持っている。荒廃した近未来を舞台に少年少女の生存競争を描く『ハンガー・ゲーム』シリーズが代表的だろう。あれほど作品を吟味して名作にばかり出演を重ねてきたジェニファー・ローレンスが、なぜ『ハンガー・ゲーム』に出演したのか、当時は訝しんだものだ。それにはおそらく、ハリウッドにおける女性の活躍を描くという明確な目的があった。しかし、その目的は思わぬ形でハリウッドの現状を悪化させてしまったことを知っているだろうか。

        昨年末、サンディエゴ州立大学に拠点を置く「Center for the Study of Women in Television and Film」によって、ある調査結果が発表された。その内容は、2014年で最もヒットした作品のうち、女性が主人公の作品はわずか12%で、この10年間でジェンダー・ギャップは悪化しているというもの。最新の調査結果によれば、女性主人公の割合は2013年からは3%、2002年からは4%少なくなっているというのだ。
        より詳細に語れば、主演の割合だけではなく、助演でも女性の役は少なく、主要キャラクターの割合は29%、セリフのある役の割合は30%でしかないという。これは2013年と同じ数字だが、2002年からはたった2%しか伸びていない。また、女性は映画の中で男性よりも若いことが多く、20代の役が23%、30代が30%だ。男性は40代以上の役が53%であるのに対して、女性は30%。この数字は、映画の中における女性の地位の低さを示しているという。

        本作は、ベアトリスが男キャラに対抗し、成長を重ね、打倒することで、今日のハリウッドにおける男女間格差を攻撃している。彼女が男たちを主導しながら博学と勇敢に対して戦いを挑む姿を通じて、「これからのハリウッドを引っ張っていくのは女だ」と宣言している。これは、『ハンガー・ゲーム』と全く同じ構図だ。そして、不意に訪れるベアトリスの父と母の死が、ハリウッドの前時代、つまり男性優位主義の死のメタファーとして機能している。トビアスとの戦いにおけるベアトリスの勝利も同じ。しかし、本作のようなブロックバスターが単発的に成功したところで、業界の流れまでは変わらない。本作や『ハンガー・ゲーム』による成功は、人々にジェンダー・ギャップの問題の本質に対する認識を歪めてしまいかねない。事実、既に歪んでいる節がある。

        結局のところ、本作はティーン・フェミニズムを標榜しながらも、若い女優の活躍だけしか提供していない。実際、本作でもケイト・ウィンスレットの他には印象的な大人の女性キャラクターは登場しない。本作を見て喜ぶファンがいることは結構だが、業界が本作のようなブロックバスターを作り続けていくだけでは、ハリウッドの将来を案じざるを得ない。

        『インヒアレント・ヴァイス』(2014) レビュー

        0

          『インヒアレント・ヴァイス』(2014)

           

          グルーヴィだぜ!

           

          ※ネタバレ無し

           

          世界三大映画祭の監督賞を制覇した唯一の天才、ポール・トーマス・アンダーソン監督の最新作『インヒアレント・ヴァイス』は、ロサンゼルスを舞台に、マリファナ中毒のヒッピー探偵が巨大な陰謀に巻き込まれていく姿をコミカルに描いたブラック・コメディだ。

           

          舞台はカリフォルニアのゴルデータ・ビーチ。私立探偵のドク(ホアキン・フェニックス)のもとに、元カノのシャスタ(キャサリン・ウォーターソン)が突如現れる。ヒッピーだった頃とは違うシャスタの姿に驚くドクだったが、シャスタに現在の恋人であり不動産王のミッキー(エリック・ロバーツ)が彼の妻と愛人による陰謀に巻き込まれるのを防いで欲しいと頼まれる。ドクは軽い気持ちで引き受けたが、その陰謀の背後に蠢く巨悪の糸に絡め取られていくことになる……

           

          原作は、アメリカ文学界に君臨する覆面作家トマス・ピンチョンが2009年に発表した「LAヴァイス」。アンダーソン監督が小説を映画にアダプトするのは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)の原作で、アプトン・シンクレア作の「石油!」以来のこと。アンダーソン監督は『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』には多くの脚色を加えていたが、本作では原作のプロットにはほとんど手を加えておらず、細かなセリフやポップカルチャーへの言及などもそのまま活かしている。その結果、展開はピンチョンの文体そのままに再現されている。

           

          本作の劇中ではたびたび「グルーヴィ」という単語が発せられる。「いかす」「しびれる」といった意味を表すこの単語は、70年代のアメリカで流行した言葉であり、サイケデリックな万華鏡のような本作を象徴する言葉になっている。そんなグルーヴィな本作を彩る俳優陣のパフォーマンスが素晴らしい。

          主人公のドクを演じたホアキン・フェニックスは役に入り込む憑依型の俳優として知られているが、今回もドクというキャラクターになりきり、『ロング・グッドバイ』(1973)のフィリップ・マーロウ(エリオット・グールド)や、『チャイナタウン』(74)のジェイク・ギテス(ジャック・ニコルソン)、『ビッグ・リボウスキ』(1998)のデュード(ジェフ・ブリッジス)といった往年の探偵キャラが持つ魅力とは異なる、新しい私立探偵のキャラを確立している。特に素晴らしいのが、絶妙な「ヌケ感」だ。たいていラリっているドクの目は虚ろで危うさを湛えており、漂うように街を流す姿にはえも言えぬ色気がある。また、会話の中での間の取り方も素晴らしい。ゆっくりと大胆な間を使いながらしゃべることで、何でもない会話が面白くなってしまう。

          そのドクとは腐れ縁の警部補ビッグフットを演じたジョシュ・ブローリンは、『ノー・カントリー』(2007)でブレイクしてからロクな役を演じていなかったが、今回は久々の当たり役になっている。彼は本作におけるギャグの大部分を担っており、特に『ドラえもん』におけるジャイアンとのび太の関係性そのままのビッグフットとドクの掛け合いには爆笑してしまう。演じている方が笑ってしまいそうな理不尽なシーンでも、鉄仮面のごとく無表情を貫くブローリンには拍手を送りたい。特に終盤の日本人が経営する飲食店でのシーンが最高で、ビッグフットのカタコトの日本語と、それに応える店主の返しの良さには腹を抱えた。

          他にも、オーウェン・ウィルソンが物語の鍵を握る元ミュージシャンを、ベニチオ・デル・トロが毒を手助けする弁護士を、リース・ウィザースプーンがドクの今カノを演じるなど、ハリウッドを代表する演技派が集結しているアンサンブルは、アンダーソン作品で最も豪華なメンツが揃ったと言える。

           

          アンダーソン監督の作品には欠かせないロバート・エルスウィットによるフィルムを用いた撮影も見事だ。青のライティングを多用しながら、蛍光の緑やピンクといった70年代のサイケデリックな色彩と煙が画面いっぱいに溶け合い、鑑賞者をトリップさせるかのような蠱惑的な映像を作り出している。やはりオープニングも印象的で、いつも通り最初のカットで長回しを用いるのかと思ったが、溜めて溜めてタイトルバックにあわせて長回し、というカメラワークが最高にグルーヴィ。

           

          達者なキャスト陣の名演とポップカルチャーへの言及の多さによって、ブラック・コメディとしても楽しめる本作だが、根幹にあるテーマは「イデオロギーへの盲信」だ。70年代の終わり頃、ベトナム戦争や人種間闘争によってアメリカ国内には極端なイデオロギーが蔓延していた。それは、暴力を伴うある種の中毒でもあった。軍隊は兵士をベトナムに送りまくり、多くの若者が無意味な代理戦争で命を落とした。国内では白人と黒人あるいはメキシコ移民が毎日のように殺し合うことで生を実感していた。マリファナ中毒の探偵よりも、よっぽどイカれた奴らが国を動かしていた時代だったのだ。アンダーソン監督は、自信が生まれ、育った70年代への懐古心の中に、暗い時代背景とコメディを見事に調和させ、文字通りの「ブラック・コメディ」を完成させている。

          「イデオロギーへの盲信」というテーマは、アンダーソン監督の前作『ザ・マスター』(2012)でも、第二次大戦から帰還した行き場のない兵士(ホアキン・フェニックス)が、「サイエントロジー」の創始者(フィリップ・シーモア・ホフマン)の思想に取り込まれていく様子を通じて描かれていた。作品の印象は全く違うが、根幹には本作との繋がりがあるので、あわせて鑑賞するとさらに楽しめるだろう。

           

          近年ではジャンルを問わず、「鑑賞者にとってわかりやすい」作品が望まれており、現に増えている傾向がある。その理由は明白で、難解な作品は大衆には受けないからだ。しかしアンダーソン監督は、『ハード・エイト』(1996)、『ブギー・ナイツ』(1997)、『マグノリア』(1999)、『パンチドランク・ラブ』(2002)、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)、『ザ・マスター』(2012)などの、大衆向きとは言えないアート映画の道を極めてきた。本作の不親切なほど複雑に入り組んだプロットの構造は、登場人物の多さからも鑑賞者を混乱させること必至だが、そこがいい。気を抜いたら置いていかれるような目を離せない展開こそ、映画好きにはたまらない麻薬なのだから。

           

          果たして陰謀を影で操っていた黒幕とは?ドクを操っていた人間とは?「インヒアレント・ヴァイス」の意味とは?

          全ての謎が明らかになる真実にたどり着いたとき、あなたはきっとこう言うだろう。

          「グルーヴィだぜ!」と。


          映画『インヒアレント・ヴァイス』は、4月18日より公開。

          『22ジャンプストリート』(2014)

          0

            『22ジャンプストリート』(2014)

             

            今度は大学で大暴れだぜ!

             

            ※ネタバレ無し

             

            フィル・ロードとクリストファー・ミラーが手がけた『21ジャンプストリート』(12)から2年、あのバカタレたちがパワーアップして帰ってきた!

            シリーズ2作目の『22ジャンプストリート』では、お馴染みのモートン(ジョナ・ヒル)とグレッグ(チャニング・テイタム)がメトロポリタンシティ大学に潜入して遅すぎるカレッジライフを謳歌しながら、大学で行われている薬物取引の実態を捜査するぞ!

             

            高校でのミッションを終えたモートンとグレッグは、麻薬の売人である「ザ・ゴースト」逮捕のために新たな潜入捜査を敢行する。モートンのメキシコ訛りが爆笑必至の潜入捜査は上手く行くかに思えたが、あまりにもしょうもないミスのせいであっさり正体がバレてしまい、必死の追跡(ここでのカーアクションが本当にくだらなくて笑える)も虚しく「ザ・ゴースト」を取り逃がしてしまう。

            警察署に帰還した二人に、所長のハーディ(ニック・オファーマン)は新たな潜入捜査を命じる。そして二人は、お馴染みの潜入捜査基地でディクソン刑事(アイス・キューブ)との再会を経て、メトロポリタンシティ大学で起こった学生の不審死と、その裏に見え隠れするドラッグディーラーの正体を追うために大学生として潜入捜査を開始するのだが……

             

            監督は前作に引き続きフィル・ロードとクリストファー・ミラーが務めた。本作でも前作以上のバカバカしさで、多方面から絶賛を浴びた『レゴ・ムービー』に負けないくらいの抱腹絶倒の112分に仕上げている。

             

            舞台が大学ということで、大学でのあるあるネタも数多く、大学生や若いサラリーマン、OLさんたちにはどストライクなギャグが数多く放り込まれている。

            お約束のドラッグネタでは、雑なスプリット・スクリーンを用いて映し出される二人のトリップ・シーンが最高。特にテイタムが幼児退行してはしゃぎ回る姿は、オスカーにも絡んだ『フォックスキャッチャー』での演技とのギャップがありすぎて笑いが止まらなかった。

            ジョナ・ヒルも負けていない。前作ではジョックのグレッグがちょっとした孤独を味わうことになったが、今回はグレッグがアメフト部や体育会系の友愛会で活躍する一方で、モートンが「ぼっち」になる。ひとり寂しく捜査を続けるモートンだったが、同じくひとりで行動しているマヤ(アンバー・スティーブンス)と出会い、二人は爽やかなロマンスを見せてくれる。ところがだ。「おお!やったじゃんモートン!」と思っていると、マヤの驚愕の正体が明かされる。このシーンは本作で一番笑ってしまった。本当に「まさかッ!」な展開で、脚本を執筆したマイケル・バコールら脚本チームの巧さが際立つプロットになっているぞ!

             

            そんな爆笑だらけの本作は、中盤から思わぬ展開を見せていく。そして終盤にかけてはアクションの色合いが強くなっていき、最後に用意されているド派手なラストが超気持ちいい!

            要所要所に挿入される低クオリティな映画へのオマージュの数々も思わず笑ってしまうが、エンドロール後のカメオ出演も超豪華で最後まで観る者を楽しませる姿勢が素晴らしい。

             

            本作で驚くべきことが一つある。それは、グレッグの親友となるズークを演じた若手俳優、ワイアット・ラッセルにまつわるエピソードだ。そう、彼はあのカート・ラッセルの息子である。

            彼には本作への出演オファーと同時に、世界中で大人気の『ハンガーゲーム』シリーズ最新作へのオファーも来ていた。しかし、本作のために『ハンガーゲーム』を蹴ったのだ!

            役者のキャリアを築く上では、ビッグバジェットへの出演は最高のチャンスのはずだ。しかし彼はこのバカ映画への出演を選んだのだ。……最近の若手俳優たちは、名声に直結するブロックバスターへの出演を望みがちだというのに、この若者はなんて見所のある奴なんだろう。彼のように真の意味で志が高い男がもっともっと出てきて欲しいものだ。

             

            友情有り、恋も有りの本作は残念ながらビデオスルー作品。しかし、その面白さは鉄板であり、観る人を選ばないほど楽しい作品になっている。ファンには朗報だが、既に次回作である『23ジャンプストリート』はプリプロダクションの段階にあるぞ!今度は一体どんな馬鹿騒ぎを見せてくれるのか? 今から楽しみで仕方ないね!


            1

            PR

            calendar

            S M T W T F S
               1234
            567891011
            12131415161718
            19202122232425
            2627282930  
            << November 2017 >>

            selected entries

            categories

            archives

            recent comment

            recommend

            links

            profile

            書いた記事数:165 最後に更新した日:2017/10/27

            search this site.

            others

            mobile

            qrcode

            powered

            無料ブログ作成サービス JUGEM