『昔々、アナトリアで』(2011) 【日本未公開作品】 レビュー

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    『昔々、アナトリアで』(2011) 【日本未公開作品】

    ※ネタバレ有り

    トルコ出身のヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の長編5作目にあたる『昔々、アナトリアで』は、アナトリアの荒野で起こった殺人事件における、遺体の捜索を描いたミステリーだ。

    トルコのアナトリアで、ケナンという男が精神に障害を抱える弟と共に一人の男性を殺したと出頭してきた。その夜、警官、医者、検事を中心とする捜索隊は、被害者の遺体の捜索をはじめる。しかし、容疑者のケナンは殺害当時は酔っ払っていたために、遺体をどこに埋めたのか、思い出せないという。しらみつぶしにアナトリアの荒野を探し回る捜索隊だったが、遺体は一向に見つからない。雷鳴と雨が降り注ぐアナトリアで、果たして彼らは遺体を発見できるのだろうか……

    ジェイラン監督は本作に至るまでの4作品で、アントン・チェーホフの短編をモチーフに家族や夫婦の厳しい現実を描いたドラマを描いてきたが、本作では「殺人」という今までにないモチーフをストーリーに組み込み、静かで、恐ろしいミステリーを構築している。本作がミステリーとして特徴的な点には、事件に対して与えられる情報の少なさが挙げられる。通常、ミステリーやスリラーなどの事件を描いた作品では、鑑賞者に事件の情報がある程度は与えられるものだ。例えば被害者の性別、年齢、殺害方法、死因などが、警察の実況見分によって紹介されるように。しかし本作は、遺体の搜索、しかも容疑者は酔っていたために遺体を埋めた場所を覚えていないというどん詰まりから幕を開ける。遺体はどんな状態なのか、どうやって殺したのか、これらの要素が全く説明されないことで事件の謎が高められ、果てしなく続く陰鬱なアナトリアの荒野が得体の知れない恐怖を喚起しているのが素晴らしい。

    望むもの(=遺体)が見つからない、手に入らないという物語の構図は、捜索隊それぞれの人生を象徴しているように思える。というのも、捜索の中では、他愛のない世間話と、それぞれの人生への愚痴、苛立ちが延々と語られるのだ。ヨーグルト、ラムチョップ、小便、家族、妻、元妻、死、自殺、社会のヒエラルキー、官僚、倫理、仕事、そして哲学。彼らは議論を続けるが、次々と場所を変えて捜索していくうちに、すべてが答えを得ること無く終わってしまい、彼らが答えを得ることができないことが、遺体を発見できないのではないか?という不確かな結末を暗示しているようにも思えてくる。
    そんな話のネタで興味深いのが、検事が医者に語る、「死んだ女」の話だ。検事の友人の妻だったというその女は、ある日友人にこう告げたという。「私は死ぬことにした」と。妊娠中だったことからその友人は真剣に考えなかったのだが、その女は子供を出産したあとに「これで死ねる」と言い残し、死んだという。「解剖は?」と問いかける医者に、検事は「必要なかったんです」と言葉を濁す。検事は明らかに「何か」を隠しており、その「何か」に苦しめられている。ここで、遺体の捜索に加えて別のサスペンスが加わり、150分にわたる物語のふんどしを締め直しているのも巧い。

    夜も更けて行き詰まった捜査員たちは、寂れた村に泊まることにする。食事ともてなしを受けたあと、捜索隊は束の間の休息を取る。医者や検事が休んでいる部屋に、美しい娘が茶を持ってくる。ランプの暖かい光に照らされた娘の表情は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画のような神秘的な美しさを湛えており、彼らが置かれている状況とは全く別の空気が画面に流れ込む。
    この娘の顔を見たケナンは、驚いたような、あるいは恐れるような不思議な表情を見せる。その直後、ある事実が明らかになる。被害者の息子は、容疑者であるケナンの実の息子だと、ケナンが告白したのだ。もしかすると、聖母のような美しい娘を前にして、ケナンは自身の罪深さを悔いたのかもしれない。……事件の非常に複雑な背景が明らかになったところで、捜査は再開される。そして翌朝、遂に遺体が発見される。ロープで手足を縛られ、無残に埋められたその男の姿は、何かを言おうとしているかのように口を開けたままだった。徹夜で行った捜索の果てに捜索隊が得た、たった一つの答えは、あまりにもむごいものだった。

    そして、司法解剖の日。医者の元に警官がやってきて、再び愚痴を吐く。「この年になると、この仕事(警官)はきついですよ。家に居られずに、仕事の繰り返しですから」。そして検事も、再び「死んだ女」の話をしにやって来る。その中で、女は心臓発作で死んだと説明する検事に対して、医者は心臓の薬のオーバードーズによる自殺ではないかという可能性を示す。それを受けた検事は、女が自殺したのであれば、それは友人の浮気が理由だったかもしれないと示唆する。部屋を出ていく前に、検事は「その妻は……」と言いかけたあと、「女性は時に残酷になるものですよ。先生」と語る。自殺した女とは、検事自身の妻であり、友人とは検事自身のことだったのだろう。
    警官と検事は、事件の解決と共に、吐き出すことができなかった自身の業を吐露する。しかし、彼らの顔に晴れやかさなどは微塵もない。苦々しく、胸に引っかかる何かが彼らの中には残り続ける。

    本作における遺体は、ある種のマクガフィンだったのかもしれない。ジェイラン監督が描きたかったのは、事件の残酷さやケナンの罪深さではなく、その裏に秘められた男たちの葛藤だったのだから。
    警官、医者、検事……彼らは自分の仕事、人生が嫌で嫌で仕方ないのだ。しかし、彼らは生きねばならない。生きることの辛さ、厳しさという普遍的なテーマを、「殺人事件における遺体の捜索」に象徴させたことで、ジェイラン監督は作家性を一歩前進させた。6月公開の最新作でアントン・チェーホフの「妻」をモチーフにして昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得した『雪の轍』ではどんな物語を見せてくれるのだろうか。来週の試写が待ち遠しい。

    『セッション』(14) レビュー

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      『セッション』(14)

       

      凡人に宿った狂気

       

      ※ネタバレ有り

       

      『グランドピアノ 狙われた黒鍵』(2013) や『ラスト・エクソシズム2 悪魔の寵愛』(2013) の脚本で知られるデミアン・チャゼル監督の長編2作目にあたる『セッション』は、音楽大学に通うジャズドラマー志望の学生と、悪魔的に厳しい音楽教師の師弟関係を描いた狂気のドラマだ。お披露目となった第30回サンダンス映画祭ではグランプリと観客賞の2冠、先日開催された第87回アカデミー賞ではJ・K・シモンズが助演男優賞、他にも録音賞、編集賞を受賞し、3冠を達成した注目作である。

       

      アンドリュー(マイルズ・テラー)はニューヨークのシェファー音楽大学に通う学生で、バディ・リッチのような偉大なドラマーを目指して日々努力している。ある日アンドリューはスタジオ・バンドの指揮者として名高いフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされ、練習に参加する。偉大なドラマーという夢に一歩近づいたことに喜ぶアンドリューだったが、彼を待ち受けていたのは、鬼のように厳しいフレッチャーの練習だった……

       

      本作のストーリーは監督を務めたチャゼルの実体験に基づいている。チャゼルはニュージャージー州のプリンストン高校に通っていた頃、「競争の激しい」ジャズバンドに所属していたのだが、そこで出会った指導者が本作のフレッチャーのモデルになった人物で、とにかく恐ろしかったという。彼は高校卒業後にドラムの道を諦め、ドラムよりも先に熱中していた映画の道を志した。ハーバード大学卒業後、雇われ脚本家として活動していたのだが、ある作品の脚本で煮詰まった際に、彼の過去を重ねた本作の脚本を執筆した。チャゼルの指導者だった人物は2003年に亡くなったそうだが、チャゼルは彼の姿にジャズ界で伝説的なドラマーとして語り継がれるバディ・リッチの短気でミスを許さない性格を足して、フレッチャーというキャラクターを完成させたのだという。

       

      そのフレッチャーを演じたJ・K・シモンズが抜群に素晴らしい。彼はサム・ライミの『スパイダーマン』シリーズの編集長役や『JUNO』(2007)のエレン・ペイジ演じる主人公の父親役といったコミカルで無害な役柄で知られているが、本作では真逆の怪演を見せている。なにせフレッチャーが画面に登場すると、明らかに画面の温度が下がり、空気が変わる。常に黒を身に纏い、重厚な威圧感を湛える彼は、ホモフォビックな言葉でメンバー(全員男)を震え上がらせる。その姿は新兵を鍛える軍人のようであり、有無を言わさぬ恐るべき迫力は凄まじい。チャゼルに「人間ではなく、怪物になってくれ」と言われた上でフレッチャーを演じたJ・K・シモンズの演技は近年稀に見る悪魔的な演技として完成されている。

      アンドリューの初日。「ここにバディ・リッチがいるぞ」とアンドリューを褒めるフレッチャーだが、その直後、少しずつ本性を出し始める。「私のテンポではないな」という言葉が数回続いたあと、突如アンドリューに椅子が投げつけられる。そしてアンドリューの顔に浴びせられる強烈な平手打ち。「お前のテンポは早かったのか?遅かったのか?」と問いかけるシーンの恐ろしさにはこっちが震え上がる。

       

      本作では本年度のオスカーの助演男優賞にノミネートされているシモンズの名演が注目を集めがちだが、主演のマイルズ・テラーもまた素晴らしい演技を見せている。はっきり言って、彼はキャリアを通じて『ダイバージェント』(2012)や『Spectacular Now』(2013)などの、キャラ設定が見合っていない映画にばかり出演し、今ひとつ役に入り込めていないパフォーマンスが目立っていた。しかし本作のアンドリュー役は絶妙にハマっている。孤独で自分に自信が持てない、日陰の存在が全てを捨てて狂気と血に塗れて行く姿は、J・K・シモンズの怪演にも見劣りしない名演と言って過言ではない。

       

      フレッチャーに見込まれたアンドリューだが、彼はあくまでも凡人だ。「競技」という世界には天才を頂点とするヒエラルキーがあり、凡人の下にも数え切れない人々がいる。しかも天才は努力を重ねることで、凡人との差を狭めることはない。では、凡人は天才に追いつけないのか?凡人は何をするべきなのか?

      「狂人的な努力」だ。本作は、アンドリューとフレッチャーの暴力的な師弟関係を通じて、凡人が狂人的な努力によって、天才と同じ高みに達するまでを描き出す。その過程では、目標に向かって努力する人物を描いたドラマ作品で描かれがちな、友情やロマンスといったサブプロットは徹底的に排除され、ドラムに打ち込むアンドリューの姿だけが描かれていく。これは鑑賞者の期待を裏切る行為だが、現実に対して誠実だ。友情、恋、家族、何もかもを手に入れようなど虫が良すぎはしないか?他の全てを投げ打つことでしか、偉大な存在にはなれない人間もいるはずだ。

       

      アンドリューはフレッチャーの厳しい指導から決して逃げない。幼い頃からドラムに打ち込んできたアンドリューだが、彼は今まで誰にも認めてもらうことなく生きてきた。親戚や父は彼の活躍よりも従兄弟のフットボールや学業の功績を誉めそやし、アンドリューの話には適当に相槌を打つだけ。そんな彼はフレッチャーとの出会いによって、生まれて初めて自分を認めてもらえた気がしたのだ。フレッチャーの厳しい特訓も、彼にとっては何ものよりも尊い貴重な時間。彼に認めてもらうため、アンドリューは、家族、友情、ニコルとのロマンス、全てを断ち切って全身全霊をドラムに注ぐことを決意する。特に印象的なシーンが、練習中に彼が血まみれの拳を氷水に浸し、血が水と溶け合うシーン。これは彼の狂気が彼自身を染めていくこと、そしてアンドリューとフレッチャーの関係が憎しみと血に染まっていくことを暗示している。

       

      親友や先輩を押しのけてドラムパートを獲得したにもかかわらず、不可抗力によってアンドリューは公演に遅刻してしまう。しかもスティックをレンタカー会社に忘れ、出演は絶望的に。しかし彼は諦めない、車を飛ばし、トラックとの事故を起こしても、血まみれで走る。折れた指、滴る血、誰が見ても演奏は無茶だが、ドラマーとしての存在価値を示そうとアンドリューはステージに上がる。彼は完全に狂人へ変貌した。しかし、フレッチャーは演奏を止めてしまう。

      絶望に沈むアンドリューは、父が連絡した弁護士に話を聞く。そこでアンドリューは、かつてフレッチャーが語った教え子の死は、事故死ではなく自殺だったことを知らされる。フレッチャーの嘘を知ってしまったアンドリューは、ついにフレッチャーを告発する。その数ヶ月後、街を歩くアンドリューは、あるバーでピアノを演奏するフレッチャーに出会う。フレッチャーは告発者が誰かは知らない様子で、JVCというバンドの指揮者に就任し、ライブを控えていること、曲目はシェファーで練習していたもので、ドラマーが今ひとつなことをアンドリューに伝える。そして2人は師弟関係を結び直す。しかし……

      JVC公演の開演直前、フレッチャーはアンドリューに囁く。“Do you think I’m fucking stupid?  I know it was you.”(私をマヌケだと思っているのか?密告したのはお前だろう)。一瞬の沈黙の後、フレッチャーはアンドリューが全く把握していない曲の名前を口にする。彼の復讐が始まったのだ。唖然とするアンドリューをよそに演奏は始まる。アンドリューはなんとか対応しようとするが、間抜けな音が響いた後に演奏は終わり、アンドリューは恥辱にまみれてステージを降りる。

      アンドリューの父が無言で抱きしめ、帰ろうと促す。しかしアンドリューは踵を返してステージに戻る。アンドリューの中で「何か」が壊れた。ドラムセットに座った彼は勝手に「キャラバン」の演奏を始める。彼には最早恐れるものも失うものもない。フレッチャーに対する怒りと憎しみ、そして狂気を込めた演奏は徐々にバンドを巻き込んでいき、観衆も引き込まれていく。そしてフレッチャーすらも魅了していく。皮肉なことに、アンドリューはフレッチャーの復讐によって天才の境地に達してしまったのだ。いつの間にかアンドリューとフレッチャーが互いに抱く憎しみや怒りは溶けていき、2人のセッションは続いていく……

       

      フレッチャーは単純に指揮をしているわけではない。彼の目的は、自分にはなかった偉大なミュージシャンの才能を持つ者を見つけ、指揮によってその才能を覚醒させること。そのためには多くの若者の人生を壊すことも正当化する。「『よくやった』という言葉は大嫌いだ。その言葉によって偉大な才能が殺されてしまうことのほうが、私にとっては悲劇だからな」というフレッチャーの哲学は正しいのか。それは「視点」によるだろう。音楽を趣味として捉えるか、それとも人生を賭けた勝負と捉えるか。後者の場合、フレッチャーの方法論は正しいのではないか。常人では辿り着くつくことができない境地には、たとえその先に破滅が待ち受けようと、狂気なしではたどり着けないのではないか。チャゼルはラスト9分間にわたるセッションで鑑賞者にそう問いかける。

       

      本作は製作現場もドラマに溢れていた。チャゼルは「19日間」という撮影期限を守るため、まるで寝食を忘れてドラムを叩くアンドリューのように、1日およそ14時間という異常な時間量で撮影を進めていた。そんなある日、チャゼルは劇中のアンドリューと同じく、交通事故に巻き込まれてしまう。しかし、彼はそのまま監督を続けて期日内に完成させてしまった。一方でJ・K・シモンズは、アンドリューを舞台から下ろそうとするフレッチャーがタックルされて倒れるシーンで肋骨を2本折った。しかし彼も撮影を続行。彼らにも映画監督、役者として突き抜けた精神が宿っていたのだろう。


      努力を諦めてしまった人、努力し続けている人、誰かの努力を見守っている人、全ての人の心に「狂気の必要性」という残酷で暴力的な真実を響かせる本作は、多くの人の心を震わせることだろう。俳優陣はもちろん、録音と音響スタッフのパフォーマンスも素晴らしいので、最新の音響設備を備えた規模の大きい劇場で観ることをオススメする。

      『ナイトクローラー』(2014)

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        『ナイトクローラー』(2014)

         

        狂気と血に塗れたジャーナリズム

         

        ※ネタバレ有り

         

        ダン・ギルロイ監督の長編デビュー作品である『ナイトクローラー』は、ジャーナリズムが狂気と血に染められていく様を通じて、今日における歪んだジャーナリズムを痛烈に批判する作品だ。

         

        物語の舞台はロサンゼルスのサンフェルナンド・バレー。コソ泥のルー(ジェイク・ジレンホール)は、盗んだ品が売れずに冴えない夜を送っていた。家路についたルーだったが、偶然に自動車事故の現場を目撃する。ルーは、現場を撮影していた男に手伝いを申し出るも、断られてしまう。……次の日、ルーは盗んだ高級自転車を売りさばき、カメラと警察無線の受信機を購入する。そしてルーは、血なまぐさい夜のロサンゼルスへと車を走らせる。

         

        監督のダン・ギルロイは、『落下の王国』(06)、『リアル・スティール』(11)などの娯楽作品のイメージが強いが、シリアスな社会派作品である本作では監督デビューを果たすと同時に脚本も執筆しており、大胆な作風の変化を見せている。

        この作風の変化に関しては、彼の父であり、ピューリッツァー賞受賞者で脚本家及びシナリオライターでもあるフランク・D・ギルロイと、兄で本作のプロデューサーを務め、社会派のスパイアクションとして大ヒットした「ジェイソン・ボーン」シリーズや、農薬関連企業の集団訴訟を扱ったサスペンス作品『フィクサー』の脚本を執筆してきたトニー・ギルロイの存在が大きく影響しているのだろう。

         

        主人公のルーを演じたジェイク・ジレンホールは、デヴィッド・エアー監督作品のモキュメンタリー作品『エンド・オブ・ウォッチ』(12)で、日々の警邏をカメラで記録する警察官を演じたことが記憶に新しい。本作では約15キロに登る減量を行い、警察官からフリーカメラマンへ変身。犯罪・事故現場を撮影しながら、ロサンゼルスの街を「ナイトクロール」するソシオパスを怪演している。子供のような純粋さを感じさせる笑顔が印象的なジェイク・ジレンホールだが、本作におけるその笑顔は、ルーが内に宿す狂気とのギャップによって、異質な恐怖を感じさせる。また彼が演じるルーは滅多に瞬きをしない。これはかつて『ドニー・ダーコ』(01)で見せた演技と同じで、得体の知れない不気味さが宿っている。

         

        撮影監督は、本作と同じくサンフェルナンド・バレーを舞台とすることが多いポール・トーマス・アンダーソンの作品に携わってきたロバート・エルスウィットが務めている。実は彼はジェイク・ジレンホールの名付け親であり、初のタッグとなった本作では、犯罪と事件の血生臭い匂いに包まれた夜のロサンゼルスを彷徨うルーの姿をスタイリッシュに映し出している。特にカーチェイスでの細かいカット割りによるスピード感溢れる映像と、犯罪現場での滑るような長回しが素晴らしい。

         

        本作はルーがナイトクローラーとしてのし上がっていく姿を通じて、ジャーナリズムの危険性とその醜さに警鐘を鳴らす。

        ジャーナリズムはある種の中毒を生む。ルーは生活のためにフリーのジャーナリストになったが、中盤以降は社会的成功という別の目的を追求していく。ナイトクローラーになる前は、彼は誰にも見向きもされないコソ泥だった。しかしナイトクローラーになり、今まで得ることができなかった大金を一夜にして獲得し、自分が撮影した映像が生む影響力に、恐らく生涯で感じたことがない程のカタルシスを感じる。彼は天職に出会ってしまったのだ。そして彼は生活を営むだけでは飽き足らず、撮影やジャーナリズムについて研究し、会社を設立し、名前を売り込み、映像の価格を釣り上げ、「良い映像」を撮るためには手段を選ばないようになる。提供する内容もコントロールし、事件の解決になりうる情報は敢えて提供しない。ライバルの車に細工をして事故を起こさせるのは完全に犯罪だが、彼は表情を変えずにやってのける。彼は映像が持つ影響力と支払われる膨大な対価に対して、ある種の中毒になっているからこそ、こうした暴挙に出ることができるのだ。

        ルーが映像を売り込むニュース番組「KWLA」のニナ(レネ・ルッソ)が象徴する「視聴率至上主義」は、シドニー・ルメットの『ネットワーク』 (76)で描かれたが、本作は暴力性を強調することで、より強烈なイメージを残す。ニナは、被害者の血や銃痕といった視聴者にとってショッキングな映像を求めている。彼らにとっては被害者がどうなろうが知ったことではなく、映像のインパクトが重要なのであり、その映像を得るためには、モラルを捨て、どんな手段も正当化してしまう。ニナも、視聴率が悪かった自分の番組がルーの映像によって高視聴率を獲得するようになることに快感を感じ始め、番組は彼女の独断によって過激さを増していく。

         

        本作はジャーナリズムに対する批判をテーマとしているが、その裏には情報の受け手である「善良な市民」に対する批判も込められている。本作の中でルーが言及するロサンゼルスのニュース番組におけるコンテンツの割合は、2004年のピュー研究所の調査に準じたものであることから(『http://www.stateofthemedia.org/2004/local-tv-intro/content-analysis/』より)も、その割合が今日のそれに直接イコールするかと言われれば疑問もある。故に、本作を理解するうえでは「善良な市民」への批判の方が重要かもしれない。情報の入手手段が多様化した現在、情報の受け手には、歪んだジャーナリズムが提供する情報を受け取らないという手段がある。しかし実際は、多くの人が凄惨な事件をある種のエンターテイメントとして消費している。

        これに関しては、中盤で登場する銃撃事件のニュースが印象的だ。このシーンでは、ニナがキャスターに「犯人は逃走中であること」を繰り返し強調させて視聴者の恐怖を煽る。「逃走中である」という状況は確かに重要な情報だが、彼らは視聴者の利益を考えているわけではない。同じ内容を繰り返すことで、恐怖を煽って、「目を離さないよう」に仕向けているだけだ。そしてルーが事件の解決に繋がる「犯人の顔」を撮影したかについては追求しない。これを見て思い出したのは、『ボウリング・フォー・コロンバイン』(02)におけるマイケル・ムーアとマリリン・マンソンのやり取りだ。その中でマリリン・マンソンは、「アメリカは恐怖というアイディアを商品の販売に利用している」と痛烈に批判していた。ジャーナリズムもこの手法を採用しているのだ。そして実際に視聴率が跳ね上がっていく様子が描かれることで、この「恐怖の拡散」は我々が考える以上に効果を持っていること、そして情報の受け手である「善良な市民」の愚かさを示唆している。

         

        サブテーマとして描かれる、雇用の減少にも注目したい。序盤でルーの車のラジオから雇用率の低下に関するニュースが聞こえてくるように、ロサンゼルスは雇用率の低さが大きな問題となっている。ルーはやりたくてコソ泥をやっていたわけではなかった。オープニングで描かれたように、ブルーワーカーとして働こうと努力もしていた。しかし、不況という現実と行政は彼に救いの手を差し伸べなかった。その結果、ルーは怪物に変身し、ルーの相棒となったリック(リズ・アーメッド)も道を踏み外し、命を落とすことになった。彼らを社会の闇から救うことはできなかったのか?このままの状態が続くと、本作のようなジャーナリズムだけではなく、別の業種にも狂気が感染していくかもしれない。


        アメリカ映画には、拝金主義や行き過ぎた野心は敗北しなければならないという暗黙のルールがある。しかし、本作はそのルールを無視して、ルーの勝利で幕を閉じる。だからこそ怖い。事実我々は、彼が体現する狂気と血に塗れたジャーナリズムを無意識に消費しながら生きているのだから。ダン・ギルロイはこの作品で社会を少しでも変えることができるのだろうか?それは、この映画の受け手である我々にかかっている。

        “WARRIOR”(11) ※日本未公開

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          “WARRIOR”(11)

           

          【史上最高の兄弟喧嘩

           

          ※ネタバレ有り

           

          ギャヴィン・オコナー監督の“WARRIOR”は、総合格闘技を通じて「壊れた家族」の再生を描くドラマで、日本公開はおろかビデオスルーすらされないのが不思議な、総合格闘技映画の傑作だ。

           

          ピッツバーグの郊外に住むパッディ(ニック・ノルティ)の前に、アフガニスタンでの従軍から帰還した息子のトミー(トム・ハーディ)が現れる。パッディはかつてトミーにレスリングを教えていたが、当時の姿からは想像もつかない父の姿に失望したトミーは、かつて知り合いが経営していた総合格闘技のジムに入る。一方で、トミーと絶縁状態にあった兄のブレンダン(ジョエル・エドガートン)は、住宅ローンと娘の病気の治療費の支払いによって経済的苦境に立たされていた。

          そんなある日、ジムでスパーリングをしていた総合格闘技の有名選手「マッド・ドッグ」(エリック・アップル)をトミーがKOしてしまう。ジムで働くスタッフが録画したスパーリングの映像がネットに流れ、トミーは謎のファイターとして脚光を浴びる。そして一躍有名になったトミーは、その圧倒的な強さを見込まれて、世界最大規模の総合格闘技イベントで、優勝賞金5億円の「スパルタ」に参加するチャンスをつかむ。一方ブレンダンは、かつてUFCの舞台で培った格闘技経験を活かし、総合格闘技の闇試合で生活費を稼ぎ始めるも、闇試合が学校にバレて停職処分となってしまう。後に引けなくなった彼は、闇試合で勝ち続けるために、かつてUFC時代にコーチングを受けたフランク(フランク・グリロ)の元を訪れる……。

           

          本作は、劇中でパッディが聴いている『白鯨』を物語に深く組み込んでいる。本作における白鯨は、キャラクターそれぞれの主観によって異なり、彼らが彼らにとっての白鯨と必死に戦う姿が観る者の心を揺さぶる。

          トム・ハーディ演じるトミーにとっての白鯨は、彼の過去だ。今は亡き母の病気が判明する直前、頼りにしたかった兄は恋人を連れて街を離れてしまった。病床の母にとって、アルコール依存を抱える父は危険な存在となり、トミーはやむを得ず家を出る。そして母を支える孤独な生活を送ったあと、最愛の母は逝ってしまう。そして「母を救うことができなかった」自分の無力さを味わったトミーの拠り所は、海軍になった。しかしその海軍でも、兵士の命を救った英雄でありながら、友であるマニー(ジャイム・シヌ・アギーレ)の命を救うことができなかった自責の念にかられたトミーは海軍を去る。居場所を失った彼は、故郷に戻ってきたが、かつての面影のない父に失望する。そして彼は唯一の生きる目的である「マニーの家族を養うこと」を達成するため、優勝賞金5億円の「スパルタ」に出場する有力選手の「マッド・ドッグ」を蹴散らし、出場を掴み取る。大会本番で鬼神のような強さでライバルたちを蹂躙していく彼の瞳には、過去の自分に対する自責の念と、奇しくも再会した兄のブライアンに対する憎しみが溢れており、その姿はまるで『白鯨』におけるエイハブのように恐ろしい。トム・ハーディは、まぎれもない英雄でありながら、物語においては徹底的にアンチヒーローとして描かれているトミーの微細な心情、それとは対照的なダイナミックなアクションを見事に演じ分けている。

           

          一方で、ジョエル・エドガートン演じるブレンダンにとっての白鯨は、「生活の厳しさ」だ。2009年に起きたリーマンショックの影響で、多くの市民は経済的苦境に立たされた。住宅ローンと娘の病気の治療費を抱えるブレンダンは高校の物理教師だが、アメリカの公立高校の教師は、意外かもしれないが収入が低い職業の典型だ。劇中での、銀行員とのシーンでの誠意が感じられない対応はリアルすぎて見るのが嫌になってくる。そんなブレンダンに与えられた「スパルタ」出場は、アメリカ人が愛する「セカンド・チャンス」と「アメリカン・ドリーム」そのものだ。ファイターとして脂が乗り切った屈強なライバルたちが集結する「スパルタ」に挑むブライアンの姿もまた、鯨に無謀な戦いに挑むエイハブの姿に重なるが、彼は憎しみや狂気を抱えてはおらず、スポーツマンシップに富んだ善の象徴であり、ボロボロになりながら妻や娘を守るために必死に戦うブレンダンの姿は美しい。

           

          そしてパッディにとっての白鯨は、彼自身の過去だ。パッディはかつてトミーにレスリングを教えて負け無しの名選手に育て上げた一方で、アルコール依存症を抱えてもいた。ブレンダンはトミーばかり目をかけてきたばかりでなく、酒に溺れる父に対して不満を募らせ、恋人であるテス(ジェニファー・モリソン)と共に親元を離れてしまった。その後、病に苦しむ母を不安定な父から守るため、トミーは母を連れて姿を消した。パッディは、自分のせいで家族という船、その船乗りである家族をめちゃくちゃにしてしまったという自責の念に苛まれ続けてきたのだ。それから14年が経ち、トミーが現れたことで父と二人の息子は再会する。今ではパッディは過去を悔い改め、協会に通って断酒を3年続けており、彼はなんとか息子たちとの関係を修復しようと不器用に努力するのだが、冷たくあしらわれてしまう。「どう歩み寄り、どう償えばいいのか?」。その方法がわからない不器用なパッディをニック・ノルティは見事に演じており、観る者の涙を誘う。

           

          そんな三者三様の本作最大の見所は、言わずもがな、ファイトシーンだ。兄弟の対照的な性格はファイトスタイルにも現れており、トミーは打撃を得意とするストライカーであるのに対して、ブレンダンは関節技や投げ技を得意とする。そんなトミーやブレンダンと戦うファイターたちも、現役のUFCファイターであるアンソニー・ジョンソンやネイサン・マーコート、1996年のオリンピックでレスリングの金メダリストに輝いたカート・アングルなど、そうそうたるメンバーが演じている。特にカート・アングル演じる“koba”は、「ロシアン・ラスト・エンペラー」と恐れられたエメリヤーエンコ・ヒョードルを彷彿とさせる設定、風貌、ファイト・スタイルから、格闘技ファンを喜ばせるだろう。

          トミーは英雄としてのバックグラウンドと短時間でのド派手なKOで瞬く間に人気を獲得し、圧倒的な強さでトーナメントを勝ち上がっていく。そんなトミーとは対照的に、4年のブランクが有り、現役時代もパッとしなかったブレンダンは多くの人に「勝てるわけがない」と嘲笑される。しかし、シザーズ・テイクダウン、「木村ロック」(チキンウィング・アームロック)、アームバー(腕ひしぎ十字)など、派手さはないが技術に基づく、いぶし銀のテクニックと関節技を駆使してライバルたちを打ち破り、「最強のMMAファイター」である“koba”をも倒す展開は、格闘技ファンのツボを押さえていると同時に、物語の展開としても素晴らしい。

          その試合を応援する人々の描写もよく考えられており、最初はテレビで試合を観ることもできなかったテスが会場に足を運ぶまでの一喜一憂、校長先生と生徒たちがブレンダンに送る声援、ジムの仲間たち、そして観客の大歓声を、クロスカッティングを用いて交互に映し出すことで試合の盛り上がりを高めている。

           

          そして決勝戦。決戦前夜のように、言葉はトミーに通じない。ブレンダンは戦うしかないのだ。兄弟は、それぞれが背負っているものの重みを技に乗せて、死闘を繰り広げる。トミーの強烈な打撃が終始ブレンダンを圧倒するものの、一瞬の隙をついたブレンダンがチキンウィング・アームロックをかける。完璧に極っているにもかかわらず、トミーはギブアップしない。そしてブレンダンは試合を終わらせるためにトミーの腕を折る。しかし、トミーは負けを認めない。彼が片手でも必死に戦うその姿は、『白鯨』におけるエイハブそのものだ。

          腕が折れてもブレンダンに立ち向かうトミーの姿を見たパッディは、ブレンダンに無言で「決着をつけろ」と諭す。ブレンダンが涙を流しながら、「トミー、ごめんな。愛してる、愛してるぞトミー」と語りかけながら、トミーにバックチョーク(裸締め)をかけるシーンには心が揺さぶられる。

          遂にトミーは兄を赦し、負けを認める。ブレンダンはトミーを倒すことで家族の危機を救うと同時に、トミーを過去の呪縛から解き放ち、バラバラになっていた父との関係も繋ぎとめる。

          なぜ、トミーはブレンダンに敗れたのか?兄弟の勝敗を分けたのは、戦う理由だ。ブレンダンの拳には家族への思いが込められているのに対して、トミーはイラクの戦場で救うことができなかった仲間とその家族への贖罪、そして家を飛び出して戻らなかったブレンダンに対する憎しみを拳に込めている。つまり、ブレンダンが未来を向いている一方で、トミーは過去という足枷に縛られていたのだ。その足枷をブレンダンが外すことで、トミーにとっての白鯨との戦い、ブレンダンにとっての白鯨との戦い、パッディにとっての白鯨との戦い、全てが決着するラストは、3人を会場のまばゆい光が包み込む。これは彼らを苦しめてきた、それぞれの白鯨からの解放を象徴している。

          格闘技映画は、格闘技そのものが占める時間的割合が多く、人間の内面や複雑な人間関係を描くことは稀だ。しかし本作は、本格的で力強い格闘シーンを描く一方で、それとは対照的な、人間の心の弱さを通じて深く悲しいドラマを紡いだ。

          本作は『シンデレラマン』(2005)や『ザ・ファイター』(2010)に並ぶ、格闘技映画の傑作であり、より多くの人に観てもらいたいと願うばかりだ。

          『ホビット 決戦のゆくえ』(2014)

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            『ホビット 決戦のゆくえ』(2014)

             

            「売り」のない映画

             

            ※ネタバレ有り

             

            先日、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの前日譚として製作された『ホビット』シリーズの最終章、『ホビット 決戦のゆくえ』が公開された。私的には『ロード・オブ・ザ・リング』と比べると抗いようのない差があり、IMAXや3Dで観るに値しないシリーズだと思ってきたので、今回も2Dで鑑賞したのだが、やはり2Dで十分だった。

             

            私は本シリーズに対しては常に厳しい目を向けてきた。まず売りがハッキリしないのだ。映画の売りとは、突き詰めれば「何を見せるか」(テーマ)、そして「どう見せるか」(映像表現)の2つだ。このうちどちらかをうまく具現化すれば所謂「いい映画」になり、両立すれば「傑作」になる。しかし、『ホビット 決戦のゆくえ』は、このどちらの売りにおいても何ら真新しいものや感動を生むことなく、終ぞ観客にカタルシスを与えることなく終わってしまったように思える。

             

            どんなキャラクターを見せたいのか、どんなテーマを強調したいのか、といった「何を見せるか」に関しては、まずキリストと弟子の人数に合わせただけの13人のドワーフが最大の問題だと思う。トーリン以外の12人のドワーフのキャラが記憶に残るに足るほど差別化されていないので、観客は3部作を通じて毎回のように印象の薄いキャラが印象に残らないやり取りをしているのを観させられることになるのだ。これでは飽きるし、『ロード・オブ・ザ・リング』の人間模様がいかに巧く構築されていたか実感させられるだけだ。「旅路を通じての人間関係」こそが強調されるべきなのに、本作のキャラクター関係は、その印象の薄さから何のプラスにもなっていない。

            特に主人公的なポジションにいるトーリンには辟易した。拝金主義からの改心も余りにも浅く、納得できるだけのきっかけが描かれていない。予測できる展開の連続でさんざん引っ張った挙句に描かれた死も、大して訴えかけるものがない。

             

            そして、「どう見せるか」という映像表現も、斬新で革命的な手法が使われているわけでもなく、ロケーションとCGに頼っているだけで独創性に欠ける。『ゼロ・グラビティ』や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のように、特別な撮影技法や音楽と神話性の高い美しいCG、観客の記憶に残るであろう場面は一つもなかった。また3Dというフォーマットを用いる以上、何らかの「3Dで見なければ意味のないシーン」が入るべきなのだが、これがシリーズを通じて一つもなかった。つまり、2D、3D、IMAX3Dといった各種映像のフォーマットが、客を集めるための手段でしかなくなっており、商業主義的な側面が垣間見えているのが実に不愉快だった。

            また本作を含むシリーズではHFRというフォーマットでの上映も行われてる。これは通常の1秒24コマのフレームではなく、48コマのフレームを使って画面のちらつきを抑えることができる映像フォーマットなのだが、そもそも見せるものに魅力がないのだから大した意味がない。


            一応は原作通りに作られているとはいえ、310ページを三部作にしたのも意味がわからない。多くても二部作にすべきだった。見せ場が多くない作品を細切れにすれば、それだけ作品としても薄くなってしまう。かなりきつい言い方になるが、本作は『ロード・オブ・ザ・リング』に乗っかった極めて商業的なシリーズだったように思える。

            『インターステラー』(14)

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              『インターステラー』(14)

               

              ノーランが抱える「リアリティのパラドックス」

               

              ※ネタバレ有り

               

              今日のハリウッドを代表する監督の一人であるクリストファー・ノーランの最新作『インターステラー』は世界中で大ヒットを飛ばし、評論家を含む映画人からの評価も高い。確かに洗練された映像表現と、近い未来に起こるであろう「食料危機」という現実的なテーマを組み合わせ、巧く表現できているように見える。しかし彼が携わった作品には、優れたテーマ性と洗練された映像表現を台無しにしてしまう、「中途半端なリアリティ」と「都合の良い展開」が生まれがちだ。そして、本作もその一例となってしまったように思えて仕方がない。

               

              近未来の地球、人類は食糧難に苦しめられていた。地球を育んできた土が、砂嵐となって人類に牙を剥いたのだ。かつてNASAのエンジニア兼パイロットだったクーパー(マシュー・マコノヒー)は、生活のために農家となっていた。多くの野菜が疫病の被害を受ける中、彼の農場ではトウモロコシが育っており、何とか生活を保っていた。そんなある日、娘のマーフィ(マッケンジー・フォイ)の部屋で度々起こる不思議な現象が、特殊な重力の活動によるものだと推察した彼は、部屋の砂が示す座標へと向かう。そこで彼が見たのは、かつて自分が働いていたNASAの秘密基地だった。食料戦争への協力を拒んだNASAは解体されていたはずだったのだが、アンダーグラウンドで宇宙開発計画である「ラザロ計画」を秘密裏に進行していたのだ。そしてクーパーは、かつての恩師であるブランド教授(マイケル・ケイン)と彼の娘であるアメリア(アン・ハサウェイ)らに協力を要請される。マーフィとの涙の別れを経たクーパーは、クルーたちと共に銀河への旅に向かうのだが・・・・・・

               

              流石ノーラン作品といったところか、『インセプション』や『ダークナイト・ライジング』の映像を担当したイギリスの映像制作会社「ダブル・ネガティブ」が作り出したワームホール突入、ミラーの滞在した惑星における津波、ブラックホール、四次元空間などの銀河の映像は思わず息をのむ。邦画には到底真似できないシロモノだ。「セリフが聞き取りづらい」という批判もあるようだが、音響も素晴らしい。ブラックホールに突入する際の音響効果は、超低音によって映画館全体が揺れ、まるでクーパーと共にブラックホールの中を通っているかのような臨場感がある。本作の「映像」と「音」を100%楽しむためには、IMAXで見る事が絶対条件なので、まだ見ていない方は是非IMAXで。

               

              本作はアメリカ合衆国の理論物理学者であるキップ・ソーンの監修のもと、科学的には極めて正しい。特にワームホールやブラックホールの描写は多くの専門家が絶賛している。その一方で、科学とは対照的な概念である宗教、つまりキリスト教的な映画でもある。「人々は星を見上げずに地面の砂ばかり見て心配している」というクーパーのセリフが象徴的だが、前半では科学への信仰を失った人々の姿が描かれる。砂嵐の猛威に苦しめられている人の多くは「アポロ計画はソ連を破産させるための策略だったでしょ」と語るマーフィの担任のように、科学への信仰を捨てた人々だ。そして彼らは「生きる希望」をも失ってしまった人々のように見える。そんな人々の中で、科学への信仰を捨てずに「生きる希望」を見出そうと空を見上げ続けるクーパーとマーフィの親子愛は美しい。

              中盤では「未知を認めるのが科学でしょ」というマーフィの言葉と共に、科学への信仰を捨てた人々に立ち向かうように、クーパーたちの戦いが始まる。

              彼らは命を賭して未知へと挑み、ワームホールやブラックホールなどの困難に挑戦する。彼らの「不確かな道を受け入れ飛び込むこと」、これは『インセプション』でも登場した”Leap of faith”だ。「ミラーの惑星」で起こった大津波からアメリアを守ったドイルの行動が象徴するように、人々が失った信仰を持ち続ける「冒険者たち」には、ノーランの作品で度々テーマとなるように、キリスト教的な役割が与えられていることが示唆される。

              マン博士(マット・デイモン)との出会いという感動的なイベントの後に用意されていたどんでん返しにはノーランらしい巧さを感じる。クーパーらより先に惑星調査を進めていて、惑星の居住の可能性をデータを送り続けることで伝えていたはずだったマン博士の裏切りが象徴する「人類の敵は人類(マン)だった」という皮肉は単純でありながら強烈だ。ノーランの映画ではたびたび「自己犠牲」が大きなテーマとなるが、描かれてきたのは自己犠牲を「し続ける者」であり、「諦めた者」ではなかった。そう言った意味では、自分のミッションを果たすことに取り憑かれ、半ばイカれてしまったマン博士は、アメリカ映画における「正義」を象徴する存在であるマット・デイモンが演じたこともあって、後半のストーリーを引っ張る必要悪として面白い存在だった。

               

              そして終盤でのサバイバルを通じて、マン博士の「自己犠牲の挫折」とは対照的な、「真の自己犠牲」を描き出していく。本作で繰り広げられる「ラザロ計画」のラザロとは、キリストの友人とされている人物だ。『ヨハネによる福音書』の第11節によれば、キリストによってラザロは復活したとされている。そしてラザロの復活は人間の原罪への救済の予兆と解釈されてきた。つまり、アメリアを助けたクーパー(キリスト)の自己犠牲がもたらした「マーフィの法則」の発見によって、人々が「科学への信仰」を取り戻す。そして人類は宇宙へと旅立ち、クーパーとアメリアの再会に繋がる。つまりある種の原罪だった「科学への信仰」が救済されるのだ。このように本作にはキリスト教的な構図が巧く組み込まれているのだ。

               

              このように、本作は映像表現とシンボリズムに富んだ魅力ある作品である。しかし、これまでノーランが携わった作品と同じように、「リアリティの放棄」によって到達できたはずの高みから滑り落ちてしまったように思う。何より問題なのが、「リアリティの放棄」に対してノーランが開き直ってしまっていることだろう。

              本作において、極めて問題があるプロット上の穴を4点挙げてみよう。

               

              .屮薀鵐俵擬がなぜ、わざわざ人殺しのような真似をしたのか

              →最初から無理だとわかっていながら娘を含む優秀な人間たちを宇宙に放り出して家族と離れ離れにするという自分勝手さには唖然とする他ない。科学への信仰を持ち続ける彼らに宇宙の神秘を見せたいという親心?違う。彼はこれまでの自分の人生を否定する現実から逃げるために彼らを宇宙に放り出したのだ。

               

              ▲蹈潺蝓爾正気を保てた理由と彼の末路の悲惨さ

              →23年間も閉鎖的な宇宙船でひたすらブラックホールの観察をしていて正気を保てるロミリーは普通の人間ではない。船に残るのはTARSかCASEであるべきではないか。苦境に耐えたロミリーは、自己犠牲を果たしているにもかかわらず、あっさりと死んでしまうのは余りにも救いがない。そんなことなら、寧ろ発狂してアメリアとクーパーに襲いかかるくらいの展開があっても良いものだ。

               

              NASAが宇宙開発を継続できた理由

              →政府によって解体された機関が宇宙開発を継続できた理由と資金源の説明不足はマズイだろう。そもそも空軍が解体されてはいるが、何らかの統治機関は機能しているはずだ。密かに進行していたとはいえ、大規模なNASAの活動に気づかないものだろうか?

               

              ぁ嵌爐蕁廚領呂インフレしまくっている

              →五次元を司る「彼ら」がエイリアン或いは未来の人類であるかどうかは問題ではなく、そもそもワームホールを作ることができる存在なら、もっと簡単な方法で人類を救うことができたはずでは?

               

              ゥーパーが完全に復活してしまっていること

              →クーパーが現世=三次元に戻ってくる必要はあったのか?これが最大の疑問だ。自分を捨てたと思い込んできたマーフィが、本棚の謎を解いて父を心の中に取り戻し、クーパーはマーフィの心の中で生き続ける、という展開の方が遥かに美しいように思える。しかも親子は再会したにもかかわらず、2分足らずであっさり分かれてしまう。約80年越しの再会が、何のカタルシスを得る間もなく2分で片付けられてしまうのもあっさりしすぎだろう。

               

              勿論、あらゆる映画にプロットの穴はある。不完全な存在である人間が描くのだから、完璧な脚本など存在しない。しかし、この映画や『ダークナイト・ライジング』、『マン・オブ・スティール』で承服し難いのは、「愛や自己犠牲という感動的なテーマでプロット上の穴を覆ってしまおう」という開き直り、そして主人公にとって極めて都合の良いエンディングが用意されている点だ。

              『ダークナイト』(08)や『インセプション』(10)にだってプロット上の穴はある、という指摘があるだろう。それはそうだ。しかし、今作との決定的な違いは、プロット状の穴は些細な現実との相違であり、ストーリーそのものを破綻せしめるものではないという点だ。今作は劇中で登場する様々な困難を、親子愛と化学のフィルターを通して都合よく解決してしまう。対照的に、『ダークナイト』や『インセプション』は現実世界からかけ離れすぎないように絶妙に構築された世界で、リアリティとサスペンス溢れる展開を通じて観る者にカタルシスを与え続け、結末に「主人公の敗北」や「不確かなエンディング」を伴うことで深い余韻を残し、傑作となったのだ。しかし本作には妥協したリアリティが溢れているせいで都合の良い展開が次々と生まれてしまっている。ノーランは『ダークナイト・ライジング』(12)でも、「リアリティの放棄」を犯し、多くのプロット上の穴を生み、それを「ブルース・ウェインの自己犠牲」という一見すると感動的なエンディングで覆い隠した。しかし、その後に何事もなかったかのようにブルース・ウェインが復活してしまうという超展開によって、彼の自己犠牲の感動が希薄化してしまった。本作のクーパーもこれと全く同じことになっている。最近のノーランには「リアリティの放棄」や「都合のよさ」をあたかも自分の魅力であるかのように受け入れてしまっている印象が拭いきれず、観終わった後に「え、これでいいの?」と思わざるを得ない「ヌルい映画」を作ってしまっていることに気づいていないのではないかと思えて仕方がない。ノーランは、自分ではリアリティがあるつもりでも、実はリアリティの崩壊を招くという皮肉で逆説的な「リアリティのパラドックス」にハマってしまっているのではないだろうか。

              『イコライザー』(14)

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                『イコライザー』(14)

                 

                消せない過去

                 

                (※ネタバレ有り)

                 

                デンゼル・ワシントン主演の最新作『イコライザー』は、一人の少女を救うために国際的な犯罪シンジケートに戦いを挑む男の姿を描いたハードボイルド・アクションであり、作りこまれた画面構成と迫力あるアクションが融合したクールな作品に仕上がっている。それと同時に、観る者に昨今のハリウッドにおける自警主義というテーマを改めて考えさせる作品でもある。

                 

                マッコール(デンゼル・ワシントン)は、ホームセンターで働く善良な市民だ。しかし彼には不眠症に悩まされているという一面があり、夜な夜なダイナーに出かけては読書をしている。そしてダイナーでは、最近知り合った常連客の少女、アリーナ(クロエ・グレース・モレッツ)と他愛のない話をして、朝が来れば仕事に向かうという日々を送っていた。そんなある日の夜、アリーナと共に夜の街を散歩をしていた彼は、アリーナがロシア人の男たちにひどい扱いを受けるのを目撃する。しかしアリーナは「大丈夫だから」とマッコールを関わらせようとしない。

                「あの女はダメだけど、女を紹介するよ。電話してくれ」

                そう言って渡された名刺は、コールガールの事務所のものだった。アリーナが危険な道を歩いていることを確信したマッコールは、男たちに受け取った名刺に書かれていた場所へ向かい……

                 

                80年代に人気を誇ったエドワード・ウッドワード主演の連続テレビドラマシリーズを映画化した本作の監督を務めたのは、アントワーン・フクア。デンゼル・ワシントンとは刑事モノの傑作として名高い『トレーニング・デイ』以来のタッグを組んだ彼は、実はキャリアを通じてパッとしない作品が多い。そもそも『トレーニング・デイ』は脚本を書いたデヴィッド・エイアーと主演のデンゼル・ワシントンの貢献度が圧倒的に高かった。しかし本作は傑作とは呼べなくとも同監督の『エンド・オブ・ホワイトハウス』などの穴だらけの作品に比べれば、圧倒的に面白い作品となっており、随所に見られる美しい画面構成やハードコアな演出は注目に値する。

                 

                デンゼル・ワシントンといえば先述の『トレーニング・デイ』(01)での圧倒的なはまり役「アロンゾ」や、『アメリカン・ギャングスター』(07)での「フランク・ルーカス」など、悪役としてのイメージが強いだろう。(※筆者は『タイタンズを忘れない』(00)での「コーチ・ブーン」が最も好きだが)

                そんな彼は、本作では昼はホームセンターで働く善良な男、夜は元CIAの過去に囚われた孤独な男という2つの顔を持つマッコールを見事に演じている。昼間の彼は同僚と愉快な会話を交わしながら真面目に働く善良な市民だ。しかし、夜になると全く違った表情を見せる。スパイとしての過去と妻を亡くしたショックが起因するのか、彼は慢性的な不眠症を抱えている。そして家では、亡くなった妻が目標としていた「読むべき100冊」の読破を妻の代わりに達成するために読書をする。家での集中が切れると近所のダイナーに行き、自前の紅茶を飲みながら夜を読書にのみ費やす。彼の生活は、「日中は働き、夜は読書」という不健康ながら規則正しい生活だ。ちなみに彼が異状に几帳面な暮らしを送っており、毎回のように時間を図りながら行動を起こすのは、脚本の設定上、スパイとしての過去に加えて、強迫性障害を抱えていることが起因している。彼は決して言葉には出さないが、心に深い闇を抱えている男なのだ。

                そんな彼にも転機が訪れる。いつものダイナーでアリーナという少女と出会ったのだ。派手なビジュアルや思想などで対照的な人生を歩むアリーナと、本についての会話をすることで、彼の心は癒されていく。

                クロエ・グレース・モレッツは、決して多くない登場時間の中で、強烈なビジュアルと、それとは対照的なティーンの女の子らしい夢にギャップを感じさせるアリーナを演じた。『タクシー・ドライバー』でジョディ・フォスターが演じたアイリスをイメージしているのは明らかだが、登場シーンの少なさや、彼女がマッコールに渡したCDが活かされていない点などで物足りなさを感じさせてしまうので、キャラクターとしてはもう少し引きたてて欲しかった。

                マッコールは元CIAという過去を隠して生きてきた。しかしアリーナが危険な目に遭っていると認識すると、自警主義に目覚める。ここで「CIAを引退してからの人生で自警主義に目覚める瞬間はなかったのか」という疑問が生じるだろう。この疑問への回答は明白で、マッコールは平穏を求めてきたからだ。誰かの問題に介入して何かを解決することで、CIAの諜報員という過去の自分に戻りたくなかったからだ。昼間の彼は同僚と談笑したり、警備員を目指す()のトレーニングにつきあったり、職場の野球大会に出るなど社交的な面もある。しかし夜の彼は孤独であり、友達とどこかに行くでもなくたった一人で読書をしている。店のマスターと積極的に話すでもなく、隣人との交流も描かれない。これは他者との関わりを断つ行為であり、過去を消すための行為であると同時に、妻の死に囚われた男であることを意味する。しかしそんな彼の孤独な夜の世界にアリーナが現れる。なぜ彼女が例外となったのか。それは、彼女が彼の孤独な夜の世界に現れた唯一の人間だったからだ。一度きりの出会いではなく、毎日のように顔を合わせるうちに、彼女は例外となっていったのだ。

                一方で、敵対する巨大シンジケートの中心人物であり、マッコールと対峙するテディ(マートン・ソーカス)の存在感も目を見張るものがある。怒りや狂気を表すことなく、障害となる存在を無感情に、ゴミのように殺していく様は悪役として清々しい。終盤でいいようにマッコールに踊らされるのは小物感を漂わせてしまっているが、死に様は派手で見応えがあった。

                 

                70年代のニュー・ハリウッドの時代に製作された『ダーティ・ハリー』(71)や『タクシー・ドライバー』(76)と比較すると、キャラクターに深みがないと批判する人もいる。確かに、本作のマッコールは、ハリー・キャラハンやトラビスのように時代を象徴するキャラクターではない。『ダーティ・ハリー』に関しては、当時の警察官は、多くの作品の中では腐敗した組織に属する悪党として描かれていた。そんな風潮に不満を持ち、自分が信じる正義を孤独に遂行するヒーローとしての『ダーティ・ハリー』は、アンチヒーローという概念を確立したことによって映画製作の流れを変えるほどの成功を収めた。一方で『タクシー・ドライバー』のトラビスは、元海兵隊の男が隠し持つ危険性と社会への不適合性を通じて、ベトナム戦争というアメリカの罪がもたらした当時の病んだ社会を象徴的に描いた。残念ながら本作は、こうした時代を象徴する映画ではない。

                しかし本作は、社会性や政治性はストーリーに組み込まれていないものの、洗練された画面構成とデンゼル・ワシントンの持つ説得力によって、きちんと成立している。本作におけるマッコールは黒を基調とした背景の中に溶け込み、敵に対して無言の圧力と監視の目を向けている。これによって生み出される緊張感と、絵画のように重厚で上品な画面構成は昨今の同ジャンルの作品には見られなかった迫力がある。近接戦での圧倒的なスピードや拷問時の落ち着き払った態度なども、マッコールに凄みを与えている。つまり、本作は自警というテーマの中に描かれる、洗練されたハードボイルドさに比重を置いて観ると楽しめる構造になっている。

                 

                とはいえ、昨今の自警主義をテーマとした作品には魅力が無いものも多いのは事実だ。例えば『96時間』(08)シリーズ。リーアム・ニーソンの「無敵のオヤジ」キャラが世界中で大人気のシリーズだが、私は好きになれない。それは演出のあざとさと、アクションのレベルの低さだ。特に1作目で娘にカラオケマシーンをプレゼントする描写は見ていられなかった。あれほど娘のことを愛していて、元CIAの凄腕スパイでありながら、どう考えても娘が欲していないプレゼントをする描写になってしまっている。テロリストや犯罪者の情報収集はあっという間に済ませるほどのネットワークを持ちながら、娘の好みすら把握できないというのは「不器用なオヤジ」の押し売りだし、いまいち納得できない。そんな風に、無理やり作った不器用さを主張されても観る者の心には響かない(少なくとも私には響かなかった)だろう。アクションは、リーアム・ニーソンがやっているだけあって迫力はあるが、あまりにもスピード感がないし、当てているように見せているだけの軽いアクションだ。しかし本作におけるデンゼル・ワシントンは、有無を言わさぬ凄みとスピード溢れるアクションで『96時間』のようなヌルさを感じさせない。


                本作は本国アメリカでも大ヒットを記録し、早くも続編の制作が決定している。本作で評論家たちをうならせることができなかった部分としては、社会性や政治性を描くことができなかった点が大きいだろう。とはいえ、あの『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』(11)も、1作目は原作に忠実な第一次大戦下における戦意高揚映画でしかなく、傑作とは程遠いものだった。評価も芳しくなく、『アベンジャーズ』プロジェクトの一翼を担うには不安があった。しかし2作目では、エドワード・スノーデン、プリズム計画、ウィンター・ソルジャーという現在進行形の政治ネタをストーリーに巧く組み込んで、史上最も政治的なアメコミ作品として大成功を収めた。本作も、マッコールの元CIAというバックグラウンドを活かして、政治的な時事ネタをストーリーに組み込んでいくとより面白いシリーズになっていくのではないだろうか。どうやら人助け稼業を始めたらしいマッコールには、幅広いテーマを用意できるはずだ。次回作に期待したい。

                『エクスペンダブルズ3 ワールドミッション』(14)

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                  『エクスペンダブルズ3 ワールドミッション』

                  BADASS JACKASS KICKASS

                  (※ネタバレ有り)

                  昨今のハリウッドにおける、典型的な「アクション映画」の価値は以前よりも確実に低下している。才能ある役者たちは、メジャースタジオが製作する超大作のSFアクションやファンタジー作品へ出演したがるからだ。なので、必然的にアクション映画に出演する俳優たちの平均年齢は高くなった。若手で見所のある者もいるが、やはりベテランたちが目立つ。その中には、「無理すんなよジジイ」と言われても仕方がないような、老体に鞭打つ姿も多く見られる。しかし彼らがどれだけ頑張っても、興行収入で超大作には勝てない。

                  「CGばっかりの映画を観やがって!」−そんな声も多く聞かれた。しかしそれは当然のことだ。消費者はいつの時代も先進的なものを好む。そして現実に彼らの仕事は減っていった。

                  「俺たちは求められていないのか?」−アクション俳優たちは、自分自身とアクション映画に限界を感じ始めていた。

                  しかし、そんな不安を持つ俳優たちを一人の男が集結させた。彼の名はシルベスター・スタローン。70年代以降のアクション映画における代名詞的な存在である彼が、同じ境遇の俳優たちと共に製作し、2010年に発射した『エクスペンダブルズ』シリーズは、ハリウッドを席巻するブロックバスターに戦いを挑んだ。そしてハリウッドの「消耗品軍団」は、興行収入でも健闘し、映画ファンの心を掴み、停滞していたアクション映画というジャンルに再び火を灯した。そんな「エクスペンダブルズ」シリーズ最新作の『エクスペンダブルズ ワールドミッション』は、90億円の制作費が投じられ、ハリウッドのアクション映画史におけるオールスターが集結し、最高にバカでド派手な闘いを繰り広げる。

                  バーニー(シルベスター・スタローン)率いるエクスペンダブルズは、過去に政治家の暗殺をしくじり投獄されていた創設メンバーの一人であるドク(ウェズリー・スナイプス)の奪還に成功。そしてクリスマス(ジェイソン・ステイサム)やガンナー(ドルフ・ラングレン)ら一行は、某所で行われるという武器取引の阻止に向かう。順調に計画は進み、 バーニーがターゲットであるミンズを目視したその時、予想だにせぬ事態が起こる。なんとミンズの正体は、バーニーが殺したはずのもう一人の創設メンバー、ストーンバンクス(メル・ギブソン)だった。過去のしくじりに逆上するバーニーは正面からストーンバンクスを襲撃するが、まんまと逃げられてしまう。それだけでなく、ストーンバンクスが放った銃弾によってシーザー(テリー・クルーズ)が重傷を負ってしまう。瀕死のシーザーのため、報復を主張するメンバーたちをよそに、バーニーは自分の不甲斐なさとメンバーの身を案じて、エクスペンダブルズの解散を宣言する。そしてバーニーは、ストーンバンクス確保のため、命知らずの若手をリクルートして「新チーム」を結成するのだが・・・・・・

                  本作の最大の魅力はレギュラーメンバーと新キャラクターのアンサンブルだ。

                  主演はご存知、我らがシルベスター・スタローン。御年68歳ながら、肉体は衰えても未だ衰えぬ熱いハートでチームを引っ張るバーニーを暑苦しく熱演している。シリーズでは脚本も書いており、毎回バカみたいな演出をブッ込んでくれる愛すべきバカおやじっぷりは健在だ。

                  本作ではリストラされてしまう旧チームの面々も、黙って引き下がってはいない。というか新チームを霞めるほどに暴れまくるジジイたちは最高にかっこいい。旧チームの中でも、ジェイソン・ステイサム演じるクリスマスは相変わらずかっこいい。名前をネタにされながらも、CQCやナイフ投げで見せ場を作り、バーニーとの友情には思わずホロリとさせる・・・かも。彼に関しては、離婚歴や負債などがないにも関わらずエクスペンダブルズにいることに疑問を感じる人がいるだろう。しかしそこは察して欲しい。彼は大切なものを失ってきたのだから・・・・・・

                  ウェズリー・スナイプスが演じ、序盤で刑務所から救出されるドクは、スナイプス自身の脱税ネタをぶち込んでくる吹っ切れたボケに好感が持てる。これは実際にウェズリー・スナイプスが、脱税の有罪判決により2010年から3年服役していたことのパロディだ。そもそもスナイプスはテリー・クルーズ演じるシーザーの役をシリーズ一作目でオファーされていたのだが、脱税絡みで長期の撮影に不安を感じた彼はスタローンのオファーを断った。脱税はするくせに義理堅いのが笑えるのだが、とうとう今作で参戦したというわけ。クリスマスとの「真のナイフ使い」決定戦にも注目だ!

                  シリーズの常連であるCIAの謎の男、チャーチ(ブルース・ウィリス)は、残念ながら降板した。理由としてはスタローンが提示した4日間の撮影で3億円のギャラに納得がいかなかったとのことだが、いったいどこまで強欲なんだよ!と言いたくなるハゲである。そんな拝金主義者はエクスペンダブルズには要らん!というかハゲキャラが既に2人いるから画的にどうなんだろう・・・・・・ということで、スタローンはふっさふさのハリソン・フォードを代役としてキャスティングした。彼が演じたマックスは、チャーチと同じくCIAの人間であり、バーニーにストーンバンクスの捕獲を依頼する男。初登場シーンでは思わず「あれ、誰この爺ちゃん・・・・・・?」と思わせるほど老けた姿が悲しかったが、彼は不思議とストーリーを追うごとに若返っていく。というのも、多分誰も気にしていないが、病院で初登場するシーンでは超猫背なのだが、参戦が決定したあとは背筋が伸び、ヘリコプターで空爆するシーンなんて、まるでハン・ソロに戻ったかのようにノリノリだ。

                  そして本作で一番印象に残ったであろうおしゃべりクソ野郎(クリスマスとガンナーの談)のガルゴを演じたのはアントニオ・バンデラス。彼は『シュレック』シリーズでのプス(長ぐつをはいたネコ)やアルモドバル作品への出演などで一定のキャリアを築いてきており、俳優としては何ら問題がないのだが、18年前の離婚歴を引っさげて参戦。パルクール使いの陽気なラテン男を熱演している。ガルゴとはスペイン語で「グレイハウンド」(恐らくアングロ=スパニッシュ・グレイハウンド)を意味する。この犬種は「運動が大好きで友好的な寂しがり屋」という特徴があり、ガルゴのキャラクターとも一致する。

                  本作は往年のアクション俳優だけでなく、新世代の売り出しも行っている。エクスペンダブルズへの入隊条件は主として、「離婚経験」・「犯罪歴」・「負債を抱えたことがある」のどれかを満たしている必要があるが、「時代は変わる」ということで若手にこのルールは適用されていない。新メンバーはぶっちゃけ冴えない。紹介するのもめんどくさい。しかし、ロンダ・ラウジーだけは別の話。彼女は北京オリンピックの柔道女子銅メダリストを経て総合格闘家に転身、アマチュアからプロに至るまでデビュー以来無敗の、現役の女子UFCチャンピオンだ。「総合ならメイ・ウェザー(世界最高のボクサーと言われている男)にも勝てる」と発言するなど文字通りの男勝りっぷりをスタローンに買われて参戦。CQCは確かに凄い。参考動画→パウンドからの腕ひしぎがお上手

                  キャストに関して惜しまれるのは、どこからともなく現れて、仕事が終われば姿を消す百戦錬磨の老兵、ブッカー(チャック・ノリス)が出演していないことだ。前作ではチームの危機に颯爽と現れたかと思えば、「コブラに噛まれた。でも翌日そのコブラが死んだ」という伝説の名言を残したことでも記憶に新しい。(※チャック・ノリスの真実を参照されたし)・・・しかし本作には諸事情で出演できなかった。本作の本編映像がプレミアの三日前にネット上にリークされ、24時間で18万9000件も違法ダウンロードされたという悲劇は彼の不在の影響だとしか思えない。

                  本作のヴィランであるストーンバンクスを演じたのは、ハリウッドから完全に干されていたメル・ギブソン。自分の邸宅の敷地内に教会を建てる、元恋人を脅迫する、「ユダヤ人なんか全員死ねばいいんだよッ!」などの近年の奇行・蛮行・人種差別発言によって、その畜生っぷりを発揮してきたメルギブは、2010年以降は年間1本という仕事ぶりだった。近年のメルギブは、正しくエクスペンダブルズの悪役を演じるに値する資質を持ったクズだったのである。しかしそのクズっぷりは、本作におけるストーンバンクスというキャラクターと見事にシンクロしている。「俺もかつてはアメリカ政府のために戦っていた。しかし奴らは用済みになった俺を殺そうとしやがったんだ」と新チームの面々に語るメルギブは、自身もアクション俳優として活躍したものの、スタジオに利用され搾取された過去を持つだけに考えさせられるものがある。

                   

                  会話も決してクールではないし、VFXはお世辞にも高いレベルとは言えない。しかし、マッチョな男たちが繰り広げるアクションと、バカっぽくてダサいB級感こそ、映画ファンにとっての「オールドスクールでオーセンティックな」アクション映画だ。面白い映画を作るには、スターと爆発があればいいのさ!と改めて我々に教えてくれた消耗品軍団の皆さんには敬意を評したい。


                  『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』(2014)

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                    『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』(2014)

                     

                    美味しいけど惜しい映画(※ネタバレ有り)

                     

                    ジョン・ファヴローをご存知だろうか?ニューヨーク大学のクイーンズ・カレッジを中退し、ウォール街で働いた後にコメディアンへ転身。自身の売れない俳優としての体験を基に脚本を書き上げた『スウィンガーズ』(96)でハリウッドに才能を認められた彼は、コメディ色の強い作品でキャリアを重ね、近年では、『アイアンマン』シリーズや『アべンジャーズ』(12)など、マーベル系のブロックバスターの制作および監督として携わってきた。そんな彼がプロデューサー・監督・主演を務めた最新作、『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』は、彼にとって久々のインディペンデント映画であり、一人の男の挫折と再生を愉快に描いたグルメ映画だ。東京国際映画祭で先行上映されるのだが、アメリカ版のブルーレイで見てしまった。

                     

                    カリフォルニアのレストラン「ゴロワーズ」でチーフ・シェフを務めているカール(ジョン・ファヴロー)は、ロサンゼルスの著名な料理批評家であるラムジー(オリヴァー・プラット)のレビューが原因でレストランを解雇されてしまう。ラムジーを罵倒する映像がネットに流れ、シェフとしてだけでなく、父親としてもどん底に落ちた彼は、元妻であるイネスの元夫、マーヴィンの提案で、フロリダから移動式の「フードトラック」を始めることにする。そして息子のパーシー(アムジェイ・アンソニー)、相棒のマーティン(ジョン・レグイザモ)と共に始めたフードトラックは、ロサンゼルスへの旅路で話題を呼び……

                     

                    映画評論の辛いところは、好きな役者やスタッフが出演している作品でも正直なレビューを書かなければならないことだ。本作はファブローらしい作品ではあるのだが、映画としての完成度は決して高くない。これには2つの要因が有り、.ャストの無駄遣い と 都合の良い展開の連続 だ。

                    まず,世、ゴロワーズの美人ウェイトレスでありカールの現在進行形の恋人モリ―をスカーレット・ヨハンソン、フードトラックの発案者でありイネスの前夫マーヴィンをロバート・ダウニー・Jr、レストランのオーナーをダスティン・ホフマン、と脇役に豪華なサブキャストが並んでいるのだが、前半に登場したこれらのキャラクターが後半に全く活かされていないのが勿体無さすぎる。特にRDJとスカヨハが、『アイアンマン』からの友情出演になってしまっていると感じざるを得ないのだ。例えばだが、以下のように変えてみてはどうか

                    まずマーヴィンの設定を変えて、彼は高級レストランを経営する嫌な奴であり、映像が流れた後に「お前はフードトラックでもやってその日暮らしをするがいいさ!」とカールに吐き捨て、元妻であるイネスを奪ってしまう。そしてカールは、「あなたにシェフとしてのプライドはないの!?幻滅したわ」と別れを切り出されてしまう。情けなく「俺を捨てないでくれよ」とすがるカールに、「じゃあマーヴィンを見返してやりなさい」とモリ―は言う。そしてマーヴィンの言葉を逆手にとって、カールはフードトラックから再出発の決意をする。そこに移り気な母親に嫌気を刺したパーシーが家出をしてきて、二人でフードトラックを始める。そこにマーティンが加わり、美味しいサンドイッチがあると評判になり、マーヴィンの経営する高級レストランの近くで爆発的な売上を上げて対抗する。そして後半、成長したカールのフードトラックに現れた彼女は、サンドを食べてカールとヨリを戻す。カールは元妻とは良好な友人関係を維持し、パーシーとは週末に店で共に働き、モリーはカールの店の看板美女ウェイトレスになる。これでいいと思う。このようにして、ストーリーに展開を増やすべきだ。モリーについては、現状では彼女はカールを慰めるだけで、何ら成長に寄与していない。そんな恋人は描く必要がない。カールもカールで元妻とヨリを戻してどうするんだよ!と言いたくなるのは私だけだろうか?

                     

                    続いて△砲弔い董0譴ら何かを作る、これは『アイアンマン』に通じる男のロマンである。フードトラックを親子が協力して作り上げていく姿は観ていて確かに気持ち良いものだ。しかし、マーティンが昇進話を断ってまでカールのもとに来るという展開は都合が良すぎる。そもそも彼らの絆の深さを証明する過去が何一つ描かれていない。なぜトニーは来ないの?という疑問も浮かぶ。2人の特別な友情を証明する何かが描かれるべきだ。

                    フードトラックは誰に対しても平等だ。客に媚びず、批評家を前にしてかしこまるようなレストランとは違う。そう言った意味ではフードトラックというテーマは良い。だが、肝心のサンドの「特別さ」が今ひとつ伝わってこない。オーセンティックなものこそ至高、ということなのか?しかし、あまりにも普通のサンドイッチで、「美味しそうだけど、なんでこんなに人気なの?」という疑問を持たざるを得ない。本作はグルメ映画であり、その顔とも言えるサンドイッチの材料、焼き方や味付けなどの調理を細かく描いていないのは大きな問題だ。そもそもカールとサンドイッチの関係は?特別な思い入れは?ただ単に「フードトラック→サンドイッチ」という図式はあまりにも安直だ。そこにキャラクターの過去や思い入れがなければ意味はない。そして、サンドイッチがなぜあそこまで評判を呼んだのか?についてだが、これが現状では、味ではなくパーシーの宣伝によるとしか思えないのだ。可愛い男の子が上手に宣伝したから売れました、としか思えない。これでは只のツイッター宣伝映画だ。ツイッターを使うにしても、肝心の買った客たちのツイートなどをもっと入れるべきだ。ラストのラムジーがカールの新店に投資するという展開も都合が良すぎる。映画評論家は映画を撮るのか?という話だ。評論をする者は対象に距離を置いて客観視する人間でなければ勤まらない。

                     

                    本作は114分という上映時間で巧くまとめようとした結果、脇役たちが無駄になり、回収するべき要素を放棄しているように感じさせてしまう。だったら2時間15分ほどに伸ばすことで、展開に幅を持たせれば観客が納得するものが作れるはずだ。「ただいるだけ」のスターには誰も感動を覚えない。そこにファヴローは気づくべきだし、料理に対する思い入れやこだわりをもっと濃く描くべきだ。またギャグに関しては所々でしつこさがあり、「まだやるの」と感じて段々と笑えなくなってくるのも否めない。本作は実にもったいない。ジョン・ファヴローには『アイアンマン』のような、自由で、少年の夢を具現化したような、突き抜けた映画をもう一度作って欲しいと思うのは、私だけだろうか。


                    『プリズナーズ』(2013)

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                      〈スタッフ〉
                      監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
                      脚本:アーロン・グジコウスキ
                      出演:ヒュー・ジャックマン、ジェイク・ジレンホール、ポール・ダノ etc.

                      監督のドゥニ・ヴィルヌーヴは『灼熱の魂』で有名なカナダ人映画監督です。『灼熱の魂』では、「離れ離れになった家族」の余りにも残酷な悲劇を美しい映像で描き出しましたが、今回のモチーフも同じです。特徴としては、出身地であるカナダのケベック地方を舞台にする点が挙げられます。

                      脚本を書いたグジコウスキは、『羊たちの沈黙』や『セブン』に影響され、この2作品のようなストーリーを書きたかったのだと語っています。キリスト教をシンボリックに組み込んでいる点やコントラストを強調した映像には影響が見られますね。


                      〈あらすじ〉

                      ケラー・ドーヴァーは、町の修理工として慎ましくも幸せな家庭を築いていた。感謝祭の季節、ドーヴァー家は、友人であるバーチ家とパーティを開いていた。楽しい時間を過ごしていた両家だったが、目を離した隙に、2人の娘たちが忽然と姿を消してしまう。まるで霧のように。娘たちはどこへ行ったのか?娘達が姿を消す前、道端で怪しげなRV車に乗っていたアレックス・ジョーンズは事件の重要参考人として連行される。しかし彼は10歳程度のIQしか持っていない青年だった。アレックスは釈放され、捜査は行き詰まる。そしてアレックスは、事件に関与しているとしか思えない言葉をケラーに呟く。無為に過ぎていく時間に焦燥を感じたケラーは、遂にある決断を下す。果たしてケラーの下した決断とは?アレックスは何者なのか?そして娘たちの行方は?謎が謎を生む、10年代ハリウッドを代表するサスペンスの傑作!

                      ※舞台がどこかについては、あまり重要ではなく、劇中でも舞台に関しては言及・明示されませんが、オープニングで狩りをしていることがヒントになっています。そして感謝祭もヒントです。感謝祭の時期に狩りが解禁される地方と言えば、ペンシルヴェニア州です。この物語は、ペンシルヴェニアの田舎町で展開します。因みにドーヴァー父子の獲物は白い尾の鹿ですが、これはペンシルヴェニアのシンボル・アニマルです。


                      〈キャスト〉

                      ヒュー・ジャックマンが珍しく役者らしい演技をしているので驚きました。ウルヴァリンのイメージしか無い程に、浅い演技力をむさ苦しい筋肉に添えて披露してきた彼ですが、今作の父親役は良かったですよ。「修理屋」という職業のセッティングも、妙に説得力がありましたね。

                      共演のジェイク・ジレンホールは最も好きな俳優の一人です。終末論を巧く組み込んだプロットが評価された『ドニー・ダーコ』や、アン・リーによる美しい映像美とヒース・レジャーとの濃厚なラブシーンが話題を呼んだ『ブロークバック・マウンテン』、夫婦そして兄弟の愛に復員軍人のPTSDを絡めた『マイ・ブラザー』、LA市警がサウス・セントラル地区で送る日常をモキュメンタリーで描いた『エンド・オブ・ウォッチ』が特に好きですね。今作でも警察官役ですが、語られる部分が極めて少ない、謎めいた警官の役が今作の見所の一つです。

                      事件のキーパーソンの一人、アレックス・ジョーンズを演じたポール・ダノが凄い。セリフが絶対的に少ないにもかかわらず、圧倒的な存在感を残しています。彼はやっぱりこういう役が似合いますね。

                      今作のキーであるボブ・テイラー役のデヴィッド・ダストマルシャンについて。彼は『ダークナイト』に出演していて、パレードのシーンでジョーカー(ヒース・レジャー)が発砲した後に取り押さえられ、拉致される異常者の男ですね。独特な雰囲気を持っているので、異常者や犯罪者を演じさせるとナチュラルな不気味さが出ていて良い。同じく『ダークナイト』に出演しているキリアン・マーフィを更に怪しくした感じです。『セブン』のジョン・ドゥ(ケビン・スペイシー)を彷彿とさせる恐ろしいキャラクターに注目です。


                      〈注目〉鑑賞前に読んでも大丈夫です

                      .檗璽襦Ε瀬里硫演
                      →何といっても、ポール・ダノに拍手です。彼は『ルビー・スパークス』での爽やかな演技よりも、今作や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のキリスト教邪教の神父、『それでも夜は明ける』の黒人差別主義者など、癖のある役柄を演じた時の方が遥かに印象が強いですね。悪役をここまで巧く演じることができる彼が、今作で演じたジョーンズのキャラクターが面白い。10歳並みの知能しか持たない内向的な青年で、事件に関与していると受け取れる奇っ怪な発言をするんですね。彼は犯人なのか?それとも?ここに最後まで翻弄される2時間半でした。劇中でほとんど言葉を発することがないのですが、言うセリフ全てに意味があります。物語のキーとなるのは彼とボブ・テイラー(デヴィッド・ダストマルシャン)です。

                      ◆嵜世悗猟戦」
                      →このテーマは、普通は言葉にされることはないのですが、今作ではセリフの中で言及されています。これは非常に珍しいことですね。『ダークナイト』のジョーカーが象徴する「人間への誘惑」や、『アメージング・スパイダーマン2』でエレクトロが犯した「自己の神格化」とは別のものです。こうした哲学的な思想ではなく、よりストレートな行動ですね。

                      信仰の光と影
                      →キリスト教徒は、キリスト教を信仰することで自己の道徳を保っています。しかし、彼らには矛盾した論理があるのも事実です。

                      ぜ悗離轡鵐椒螢坤
                      →以前に触れたように、蛇は悪魔の象徴です。中盤で出てくるボブ・テイラーが象徴する蛇は、事件の鍵なのか?それとも・・・・ここがとても面白いです。

                      タ討砲覆襪海
                      →親になることで人は如何に弱くなってしまい、強くなることができるのか。これが悲しくも恐ろしいのです。今まで賞賛に値するような演技をしてこなかったヒュー・ジャックマンの、「やればできるじゃん!」と思わず言いたくなるような、極めてリアルな演技によって描き出される「親になること」の悲しさと恐ろしさ。これが見所ですね。


                      〈総評〉

                      全編通じてサスペンス満載の傑作でした。『羊たちの沈黙』や『セブン』を彷彿とさせる演出はもちろん、アメリカで社会問題となっている誘拐を通じて描かれる、「親になること」の怖さ、キリスト教の矛盾などが恐ろしくも悲しいストーリーは必見です。なんといっても、ヒュー・ジャックマンがちゃんと演技できてます!(笑)




                      〈テーマと解説〉以下は鑑賞後に読まれることをおすすめします

                      .▲瓮螢における誘拐
                      →アメリカ司法省の統計によると、行方不明者として報告される18歳未満の児童は年間79万7500人に上り、1日当たりに換算すると2185人にもなるそうです。なぜこんなに多いのか?それは、日本ではあまり聞き慣れないのですが、離婚率の高い米国では、離婚した親同士やその他の血縁者による子供の奪い合いに起因する行方不明者が年間20万3900人と圧倒的に多いのです。第三者に誘拐された子供たちは、売春業者や性的変質者などに売り渡されることも多く、チャイルドポルノや臓器売買の餌食になってしまうとのこと。特に性的いたずらを目的とした児童連れ去りは男女問わず多発しており、今作のように、ついさっきまで、そこら辺で遊んでいたはずの子どもが消えてしまうといった、いわゆる”神隠し”は、米国では日常茶飯事なのです。日本人には伝わりにくいかもしれませんが、米国の試写会ではかなりの衝撃だったそうですよ。


                      ⊃世悗猟戦
                      →今作では、かつてキリスト教を信仰していたジョーンズ一家に降りかかった悲劇が全ての始まりでした。キリスト教に絶望したジョーンズ夫妻は、神の子である子供たちを誘拐し、殺すことで「神への挑戦」をしてきました。これは『ダークナイト』のジョーカーのそれとはまた別のものです。ジョーカーは人間の持つ善と悪といった価値観をひっくり返し、人間の弱さを暴き出す過程で、信仰や正義といった価値観を否定するアナーキズムの実践者なのですが、ジョーンズ夫妻(夫はなくなっているので主としてホリーが)は単純な復讐をしているだけなのです。そしてここにも我が子を想う親の愛があるのです。歪んだ愛であることは間違いありませんが、子を失った親は何をするか分からないでしょう。ここにリアリティがあります。そしてアレックスやボブ・テイラーが象徴する様々なメタファーが観客をミスリードし、ラストで「騙された!」と思わせるために、事件の真相は単純な構造になっているのです。これは巧いですね。脚本が素晴らしいと思います。


                      信仰の光と影
                      →この映画で最も怖いのは、ヒュー・ジャックマン演じるケラーの変貌ですね。これはネズミが象徴的に表しています。序盤でアナとジョイが可愛がっているネズミは白ですが、ケラーが2人の搜索に乗り出すときには黒いネズミになっています。これは、白(聖)から黒(邪)への変化という色のシンボリズムです。敬虔なキリスト教徒であり、良き父だった彼が、娘を救うという目的のために手段を選ばない悪魔のような男に変わっていく様子は本当に恐ろしい。しかし、「もし自分がケラーだったら?」と仮定すると、もっと恐ろしくなりますね。もし、あなたの子供が忽然と消えたとしたら?近所の怪しい男が関わっているのではないかと思ってしまったら?・・・・怖いですよね。ケラーのように、ジョーンズを誘拐して拷問することはない、と言い切れるでしょうか。これが今作を観終わった後に、心の奥に引っかかる嫌な感じを残すのです。でも映画にはこうした後味の悪さはあるべきだと思います。特にサスペンスには。


                      の冤の限界と罪の必要性
                      →事件があってから暫くはケラーも警察に任せていましたが、なかなか進展しない状況に業を煮やして暴走を始めます。そしてアレックスを拉致して拷問することで道が開けると考える。アレックスに対する彼の罪が象徴しているのは、「倫理の限界」です。現実に危機的な状況に直面した時、倫理に則っても限界があるだろうと。人間には、倫理を超えなければならない、罪を犯さなければならない状況があるものだろうと。今作を見て僕が思い出した作品が幾つかあって、例えば『フローズン・リバー』があります。「親が子を守るために一線を超える」という点で共通していますね。と言いますか、今作で異常思考の誘拐魔、ホリー・ジョーンズを演じたメリッサ・レオの主演作です。これも傑作ですので、観てない方は要チェックです。
                      罪に関して言えば、オープニングで鹿を殺めたことが、ケラーと彼の息子にとっての罪になっているのではないかと思います。というのも、中盤でケラーに「しっかりしろ!」と叱咤された息子が何気なく目線をやるのが、鹿の写真か絵なんですよ。(記憶が曖昧で申し訳ないです)彼は初めて鹿を撃ったので、彼にとってはイニシエーション(大人になるための儀式)だったのですが、その後の事件を通じて、「父親のような大人になることは正しいのか?」という疑問が生まれるのです。つまりこの事件自体がもう1つのイニシエーションになっているのです。これも興味深いですね。因みに当初の構想では、アレックスを見つけるのはラルフとエリザだったらしいです。

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                      →これはキリスト教徒には馴染み深い考え方で、元は「黙示録に備えて準備をしておくべきだ」という考えに始まったものです。この思想は昔から有り、現代では戦争や異常気象などに備えるという意味合いに変わりましたが、今作でケラーが尋常ではない量の備蓄をしていることは、彼が極めて敬虔なキリスト教徒であることを意味しています。そして皮肉なことに、これらの備蓄は全く役に立たず、彼の娘が誘拐されるという「全く予期していない災難」がケラーを襲ったのです。アメリカは「誘拐国家」と言えるほどに誘拐が多い国なのですが、それでも他人事のように考えている人が多いのだとヴィルヌーヴは考えているのだと思います。そしてそれがもたらす悲しみを想像したことがあるのかと。ここに「家族」をテーマとするヴィルヌーヴの強いメッセージを感じますね。

                      Ε肇螢咼
                      →アレックスの「叔母」であるホリーについてですが、ホリー・ジョーンズという名前は、2003年にトロントで実際に誘拐された少女の名前です。

                      北欧神話において、ロキが「ウートガルザのロキ」という巨人の王から子供を守ろうとする話があり、今作はその神話をモチーフにしています。ロキが2人いてややこしいですが、別人ですよ。

                      ロキが身に付けている物も面白いですね。特にフリーメーソンの指輪。特に意味はないのですが、ロキって何者なの?と物語の謎を深める効果がある小道具です。これに関しては後で書きます。


                      〈評価〉

                      評価はS

                      久々にヒリヒリするような感覚を覚えたサスペンスでした。『瞳の奥の秘密』以来の満足度。


                      〈余談〉

                      なんかNAVERにこんなまとめ
                      http://matome.naver.jp/odai/2138174331084413501
                      があるんですが、言ってることが良く分からない(笑)

                      TheWrapのインタビューで、脚本を書いたグジコウスキが
                      http://www.thewrap.com/prisoners-writer-aaron-guzikowski-on-the-kidnapping-thrillers-twisted-road-to-theaters/
                      「指輪や刺青、顔面の痙攣はジェイクのアイディアで、ロキのキャラクターをミステリアスにするという狙いがあった」と説明しています。上記のまとめは適当な陰謀論なので、騙されちゃダメですよ(笑)
                      本当に余談ですが、TheWrapの記事はなかなか良いです。訊くべきところに突っ込んで訊いているので。













                       


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